不動庵 碧眼録

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<<   作成日時 : 2016/12/29 12:38   >>

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生きていると毎日でないにしても、頻繁に嫌な事や嫌な人と対面せねばならない事があります。予定されているものも嫌ですが、偶然、突然それがあったりするのも本当に嫌なものです。
私は寛容な人間ではありません。ハッキリ嫌いな人もいれば、嫌なイベントもあります。嫌いな人は決して好きにはなれないだろうと思います。
自己弁護になるかも知れませんが、私が嫌いなのは私に対して明らかに攻撃的な人だけです。それ以外は可能な限り寛容な気持ちで接していますが、口撃/攻撃対象が自分では避けられるはずもなく。
本格的に禅を始める前まではこれに対して過剰反応していたのではないかと思います。

禅を始めて世界が変わりました。表象の見方が変わったのかも知れません。
今ここで起きている物事は、あることのほんの一部であるとか、もめ事を起こしている相手すらあることのほんの一部、そもそももめ事かどうかなど、自分自身だけのものさしで計っているに過ぎない、ということを知りました。相手はもめ事ではないと思うから事を起こしているわけですから。その固く握りしめている自分だけのものさしを手放す訓練が私の場合は禅だったという事です。

いつもそれを手放せるわけではありませんが、以前よりは遥かに心が落ち着きます。
苛ついたり落ち込んだりする事がかなり減り、心が平安である事が増えた気がします。
心に余裕ができると、私を口撃する人すら、よい稽古台だと思えるようにもなります。
いかにしてそれを留めないようにするか。
いかにしてそれを流せるようになるか。

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ほんの少しの自我があるだけでもそれはささくれのように相手の売り文句に引っかかって痛みや怒りを覚えてしまいます。耳を塞ぐ、心を塞ぐのも同じ、ストレスを溜めるだけ。
すっと透過する、そんな感じです。その為に自我を消す。何も感じなくなるわけではなく、盾を掲げるでもなく、内面に籠るわけでもなく。周囲と同化するというのか、周囲と調和するというのか、周囲と同期するというのか、そんな感じだと解釈しています。
相対的視点から離れ絶対的視点に身を置く。相対性のない世界。

一旦相対性のない世界に身を置いてから言い返したり、反撃?したり。そういう場合は多分に真理と言うのか本質的である事が多いような気がします。自分を勘定に入れない状態に身を置いてから言う言葉には力があると思います。

私の周囲にもゴリゴリの偏見や先入観、固定観念に病的なまでに固執して手放せない人が何人もいます。それが故に自ら苦しんでいることに気付いていない。自分も昔はそうだったのだなと思いはしても、手を差し伸べて救いたいとは思わず。四弘誓願という、仏教徒のための4つの誓いがあるのですが、その最初のひとつが「地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願」。でも最近感じる事はこれは必ずしも手を差し伸べて救うわけではないのかなと言う事。他人の手で自分を変える事は難しい。変えたい相手がいたら自分の見方を変える、まずそこからだと感じたものです。自分が変わり、相手がその変化に戸惑う、そこからではないかと思うのです。それで変わらねばそれはそのまま、良いとか悪いとか言うものではなくそれがその人の仏性だと思うこと。「思うようにならない」とは自分のものさしを固く握りしめているから。

私の場合は禅仏教なので、禅を通じて自分の仏性を磨きますが、その途上で周囲と磨きあったり助け合ったり。色々な意味で影響することが、広義の意味で四弘誓願に即しているのかなと思っています。

人は苦いものも甘いものも等しく「おいしいもの」と認識できます。
人生に在って身に起こる事柄もそのようなものではないかと思う次第です。

特に意味もなく書き散らかしてしまいました。

平成二十八年師走二十九日
不動庵 碧洲齋

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