不動庵 碧眼録

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<<   作成日時 : 2017/01/17 10:39   >>

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週末は息子と秋葉原に買い物に行きました。
その折、息子が人間の目とデジタルカメラのスペックについて聞いてきました。
私もそれほどには良く知りませんでしたが、画素数はそれほどでもないにしても各種補正機能や視認範囲などは人の目は機械を遥かに凌ぐ性能だと言いました。後でネットで調べると光の処理についてはお話にならないほどに人の方が優れているそうです。

しかし、問題は「見えているように人が認識できるかどうか」。
動物には生存するための野生本能や習性があります。もちろん人間にもあります。
ところが人間にはそれ以上に脳が機能して、社会的習性や個人慣習の方が強くなることしばしば。
平たく言えば「固定観念」「先入観」「読み違い」「希望的観測」などなどです。
人が最低限の生存の為の防衛行動、生存活動以上のことをして、言われなき理由で他を殺傷してしまうのはこれが為と言えます。
例えば「殺されるかも知れないからその前に自己防衛行動に出る」とか「お金が足りなさそうで他に収入のアテもないから奪う」とか。「タラ・レバ・カモ」由来の行動。見えてない未来を見据えて行動するパターンと言えます。
もしくはその逆もあります。とっくに過ぎてしまった過去と比較して行動するパターンなど。
例えば・・・
10年前の私しか知らない人がもしこのブログを読んだら・・・
20年前の私しか知らない人がもしこのブログを読んだら・・・
30年前の私しか知らない人がもしこのブログを読んだら・・・
その人たちの脳にも補正機能は(多分)付いていて、「私は多少なりとも成長している」と推測はしているかも知れませんが、それはホンモノではなく「彼らがそうであると希望している、期待している姿」以外の何ものでもなく。だから過去しか知らない場合などは「何エラそうなことをぬかしやがる!」と思うかも知れませんし「おお、思ったより成長したな」と思うかも知れません(笑)。いずれにしても「私は今ここに1人しかいない」のに、「人によっては過大評価したり、過小評価したり」。1人しかいないのに人によって違う評価が出てくる。だからどんなに良い評価であろうと悪い評価であろうと、それらは全部「間違い」です。

彼我、古今、東西、左右、前後、上下、そういう対象を客観的に観ることはなかなか難しい。
観音様という仏様がいます。正しくは「観自在菩薩」とも言いますが、文字通り「自分すら」自在に観ることができる菩薩です。普通いかなる生き物も自分の顔を自分の肉眼で直接見ることはできません。当たり前の事ですが、誰しも自分の本当の姿を見ることができないままにやれ綾瀬はるかは美人だ福山雅治はイケメンだと言っている私たちがいます。よく考えるとおかしな話しですが。観音様は自分自身のお姿を観ることができます、それは自分自身、つまり自我を消失させているから。「オレがオレが」の人ほど自分がよく見えていないと言えます。逆に滅私奉公、無償の愛、何でもいいですが、自分を勘定に入れないで行動する人ほど自分がよく見えていると言うことができるのかも知れません。もちろん、固執しているものが自分でなくともお金だったり過去だったり異性だったり、色々です。固執から完全に離れた境地が観自在菩薩と理解しています。
私の師匠はよく言います。私たちは自分の寝顔を見ることはできないが、寝ることはできる。自分に対してはdoではなくてbeということでしょうか。逆に他人は自分ではないのだからbeではなくdoする。その真理を逆にしようとする浅はかな行為が「固定観念」「先入観」「読み違い」「希望的観測」に現れているのではないでしょうか。

自我のあるところにねたみやそねみ、怨みや憎しみ、悪意やサディスティックな気持ちが潜んでいます。私の知り合いにも禅を行じて無になるというのは、現世逃避とか遁世とか現実逃避とか思い切り誤解している人もいます。まあ、私は随分丁寧に説明はしているのですが、そういう手合いも「固定観念」「先入観」「読み違い」「希望的観測」にガチガチに縛られていて、正しく見たくないだけなのかも知れません。目耳を塞いでいる人に説明しても無駄なのであまり言いませんが。
自我の反対、無我というのは清浄な無垢の状態ではなくて、清濁併せ、森羅万象すべてをひっくるめてある無我・・・と理解しています。あまり詳しくは言いませんが、その筋からの情報なのでまずまず間違ってはいないと思います(笑)。諸々の感情や感覚全部がいっしょくたになったところにこそ無我がある。私的には随分とリアリティーがありますが、どうでしょうか。

その点、人間以外の動物などはかなり純粋にものを見られるのだろうと想像しますが。写真はうちのネコです。
画像


「見えている」ことと「認識する」ことの間には膨大な溝があります。
この誤差こそが悩みだったり迷いだったり苦悩だったりしているようです。
「見えたままそのまま」の景色だったらどんなに潔くも清らかな景色でしょうか。
このギャップを埋める方法論のひとつとして禅があるのかもしれません。
その景色はきっとデジカメで撮影された風景のように、心に染みるものだと思います。そう見えないのは自らの卑小な想いや願いがその景色をゆがめているためです。

万物流転と言います。
私も人ですからあの日あのときあの場所で、嫌な思いをしたらそれは間違いなく嫌な事ですが、今ここにいる自分には全く関係なく。
腹立つ人も会社もありましたがそんなものはとっくに過去の忘却の彼方です。
同じ川でもその水は常に流れていてもはや同じものにあらず。その程度のことです。
清らかにものを見る、正しく見るというのがイコールであるならば、我見を棄てる、そういうことではないかと愚考します。


平成二十九年睦月十七日
不動庵 碧洲齋

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