不動庵 碧眼録

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zoom RSS 本来無一物

<<   作成日時 : 2017/06/21 08:26   >>

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私が初めてデジタルカメラを所有したのは1997年末頃だったでしょうか。
記憶では富士フイルムのカメラで37万画素だったと記憶しています。
新しい機種がその倍ぐらいの性能で、そのため型落ちということで安くなっていて買いました。20年前になります。
私は1995年頃まで日本語教師になるための勉強をしていて、その頃の授業のスクリーンなどは普通のフィルムカメラで撮影していました。
上記のカメラは使い勝手が悪い上に画質も明らかに悪かったので(今やスマホの内側カメラでも200万画素とかですから)フィルムカメラと併用していましたが、2002年春頃に出たソニーサイバーショットが400万画素という性能だったので、以後ほとんどデジカメに移行しました。ちなみに翌年は息子が誕生しましたがそれに合わせて携帯電話も夫婦で買換えて当時としては初の100万画素超えカメラ内蔵のシャープ製携帯電話にしました。
以後、ほぼ全てがデジカメの画像になります。我が家はあまり動画は撮りませんが、それでも21世紀に入ってからのデータ量は優に1テラバイトぐらいにはなるでしょうか。

私のデジカメ遍歴の話しではありません。
デジカメ以前も写真は手軽ではあってもデジカメほどではなく。使い捨てカメラをバッグに忍ばせていた人はいたでしょうが、今の携帯カメラの比ではなく。

人は生まれたときは裸一貫、死ぬ時も然り。多分死ぬ時に怖いのは死ぬことよりももしかしたら持っていたものを手放さなければならないからかもしれません。
そう考えると昔の人の方が失礼な言い方をすれば諦めが付くというのか執着が少ないというのか、そんな感じではなかったでしょうか。
そう考えるとモノの豊かさよりも心の豊かさを持っていた方が死の恐怖は少ないのかも知れません。

先日の話です。
数年間、うん千枚もの画像データをカメラのSDカードに入れっぱなしにしていた知人がいました。多分整理整頓ができないクチなのでしょう。
・・・手違いでSDカードが初期化されてしまいました。・・・
その時のその知人の狂気には圧倒されました(笑)気が触れたかのように叫び狂って手が付けられないような状況でした。人の執着の凄まじさというのでしょうか。その知人は画像のみならず、ハムスターみたいに自分の部屋に何でも溜め込んでいるようなのですが、その我利に対する執着の狂気には引きました。
結局は別の友人がSDカード復旧ソフトで(今時はそういうものがあるんですね)データ復旧をしたらしく事なきを得たのですが、我に返って自分の狂気をやや恥じていた風でした。

元来無一物、禅ではそう言います。
生まれてきたときは何も持たずにこの世にやってきて、あのように行くときも何も持っていけないことが分かっているわけですから、やはりものに執着することは良いことではありません。1億円でもかけがいのない品でもなくなってしまったら「あ〜あ」この程度。そういう心積もりが逆に心を豊かにするような、そんな気がします。

我々は聖人ではないですが、せめて日々起こる97%ぐらいは流し去れるものと心得ておけば、不要な恐れも怒りも不安も哀しみも大幅に減り、本来あるべき自分にもっとより寄り添えます。そしてそれこそがあるべき本当の心の豊かさではないかと考えます。

写真は庭の紫陽花
画像


平成二十九年水無月二十一日
不動庵 碧洲齋

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