四弘誓願文のこと

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私は毎朝、仏壇に手を合わせ、以下の経典を読経します。

一、般若心経
二、仏説不動経
三、不動真言
四、四弘誓願文

何か特別なことがあると、更にいくつかの経典を追加して読経しますが、この四つは基本にしています。

最後の四弘誓願ですが、これは般若心経と同じく宗派を問わず読まれているものです。
お経というよりは誓願文ですね。ちなみに四弘誓願は以下の四カ条です。

衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

漢字ばかりで分かりにくいと思いますので、口語訳にするとこんな感じになります。

生物は無限だが、全て救うという誓願
煩悩は無尽だが、全て断つという誓願
法門は無量だが、全て知るという誓願
仏道は無上だが、必ず成仏するという誓願




衆生無辺誓願度
⇒生物は無限だが、全て救うという誓願

地球上の生き物の数はバクテリアの類まで含めたらそれこそ無限と言ってもいいでしょう。これらを全て救う、とは別段手をさしのべるという意味ではないと思います。それぞれの生き物を全うさせるという意味ではないでしょうか。絶対に鯨を殺してはいけないとか、何が何でも絶対戦争反対という訳でもありません。いくつかの視点、観点からやはり最低でも鯨を殺さざるを得ない場合、肉の一片や骨の一本、血の一滴に至るまで深く感謝し、かつ絶対に無駄にしてはならないと言うことです。それがその生き物が現世において全うすべきあり方です。言っておきますが、この世の生き物のうち、老衰とか天寿を全うできるものは一体どれほどあるでしょうか。生き物は原則、食い食われつつ存在しています。だからこそ、相手を食んで自分の命を長らえるという行為をいい加減にしたくないものです。戦争については軽はずみな言動は慎みたいところですが、端的に言わせていただければ命懸け、死に物狂い、滅私奉公で国家と国家の戦を止めるべく尽力し、それでも不幸なことに戦いになってしまった場合、やはり命懸け、死に物狂い、滅私奉公で全力を以て戦うということです。要するにその時その時の「それ」になり尽くす、という意味です。だからいい加減な外交活動の果ての、適当な戦争なんていうのは戦死した人が報われないと思います。生き尽くす、生き尽くさせる、これが「衆生無辺誓願度」の意味ではないかと日々思っています。



煩悩無尽誓願断
⇒煩悩は無尽だが、全て断つという誓願

煩悩とはある意味楽しいものです。これは誰も否定できません。美人が近くにいたら男は嬉しいですし、あわよくばもっとお近づきになりたい。美味いものもたらふく食べたい。お金も欲しい。あれも欲しいこれも欲しい。強くなりたい、権力も権威も欲しい。美しくなりたい、モテたい。生物学的なレベルから哲学的レベルまで様々ですが、欲求がない人はいません。逆にいたらちょっと気持ち悪いです。人間である以上、煩悩とは腐れ縁、終生の友達のようなものです。だから言います。友達はあなたではないし、その友達と同じ日に生まれたわけでもないし、いつもぴったりくっついているわけでもありません。つまり煩悩というたちの悪い友人は「あなた自身ではない」ということです。この世にあなた以外の生き物が生まれたときから存在しなかったら、あなたはあなたと認識できません。森羅万象は相対関係で認識し合っています。だからあなたの心の中という世界にあって、煩悩はあなたを認識させるための存在と考えます。もちろん、仏教における修行はその上を目指しています。つまり相対的な自分ではなく、絶対的な存在(そこには自他もありません)を知ることにあります。私の世界にいるあなたがいなくても、私が私と認識する、これが「煩悩無尽誓願断」なのかなと思ったりします。



法門無量誓願学
⇒法門は無量だが、全て知るという誓願

「全て」に引っかかってはいけません。常識で考えれば仏教の全部などとても分かりっこないのです。全部知っていた人がいたとしたら、それは唯一人、お釈迦様だけです。私はこれを簡単に言えば「よく噛んで食べましょう」ということだと思います。情報・知識のままではなく、良く噛み尽くして智慧や般若にすると言うことだと思います。それが「全て知る」ではないかと思っています。この世はまさにデジタル世紀です。インターネットを通じて片田舎にいてもおよそ探せぬ情報はなく、知らない知識はありません。しかしながら1と0が小さい機械の箱の中で織り成す妄想に惑わされ、真理を観る眼が曇ってはいけません。自分が徹底してカミカミしたものだけが本当なのです。だからネット上だけでの恋愛、友情などはまやかしに過ぎません。ただネットそのものが悪いとは思いません。悪用する人が多いのは残念なことです。今私たちの前を過ぎ去っている森羅万象すべてに一期一会の気持ちで相対して徹底する、これが「法門無量誓願学」ではなかろうかと思案しています。



仏道無上誓願成
⇒仏道は無上だが、必ず成仏するという誓願

私は「必」という漢字は「心」を刀で袈裟斬りにしたような象形のような気がします。必の指し示す目標にたどり着くには、エゴや執着を斬り捨てないと辿り着かないのでしょうか。果てしない、ゴールが見えるなどという相対的視点もまやかしです。多分悟りはそんな道の道端に落ちているはずがありません。禅宗で言えば徹底覚悟して坐り通すことによって成仏できるとあります。方法は色々あって然りだと思います。坐るだけで何が分かるというのか?これもOK、チンプンカンプンなものを読んで成仏などできないだろう、これもOK。グータラしたかったら徹底してグータラしなければなりません。グータラしている最中に罪悪感に苛まされていたら何のためのグータラなのか。今まさにやっているグータラという行為そのものが全く無駄になってしまいます。グータラでも徹底すればいつかは成仏するでしょう。仏教における修行はグータラや楽ちんよりもずっと効率的に成仏、悟るためにできているというだけです。まあ人は最後は仏に戻りますから、別段苦しい修行をしなければならない理由はないかも知れません。禅で言うなれば見照してもしなくても最後は仏になります。死ぬ前に死後の世界を観たいというちょっと贅沢な人たちのために仏教の修行があるのではないかと思います。言ってみれば修行はうどんやそばに振りかける薬味や七味のようなものです。それがなくてもうどんやそばは十分にうまいものだと思います。それでも人は薬味や七味を足してワンランク上を求めます。そういうことがあってもよいのではないかと思います。「仏道無上誓願成」は薬味七味を付けてワンランク上を生(行)きたい人の誓いだと思っています。



まこと勝手気ままなことばかり、ずいぶんと偉そうに徒然書き連ねてしまいましたが、ここにある意見は全て私個人に帰するものです。私の禅友、師事している老師には一切責任はありません。その道の専門家がご覧になって、批判されるべきがあれば何卒お許し下さい。一在家が勝手な戯言をほざいていると一笑に付して水に流して頂ければ幸いです。


SD101210 碧洲齋