父の命日

今日は父の命日でした。
心筋梗塞で急逝してから4年になります。
もう4年なのか、まだ4年なのか、未だ相反するこの二つが交錯している気がします。
死んでしまった人には何ですが、元いたところに戻っただけです。
すでに父は安心(あんじん)を得ているのです。
だいたい人の生死は誰にも決められないのですから悔やんだり惜しんだりはしませんが、毎度の事ながら留まることを知らぬ、時の流れの早さに新鮮な驚きを覚えます。

父は非常に豊かな商家の生まれで9人兄弟の8番目でした。
家は日本橋、今で言えば小伝馬町辺りに自前の土地借地をあわせて200坪以上あったそうです。
父の家には戦前からトラックを含む数台の自動車を所有していて、多くの従業員がいたそうです。
9人一人一人に専属の召使いが付いていたとかいないとか。
その他に今で言うとJR幕張駅すぐそばに600坪の別荘を持っていました。
戦時中、空襲が始まった頃にそちらに引っ越し、以後結婚するまでそこに住んでいました。
当時は浜辺がずっと近く、別荘が多く、風光明媚なところだったそうです。
父の家にはその頃から本宅と別荘間に「内線電話」があり、よく利用していたと言うことです。
また、祖父は東条英機元首相とも親交があり、何枚か揮毫してもらったものがあったらしいのですが、戦後焼却処分してしまい、残念です。
今、私の家に残っているのは大正末期から昭和初期頃の比較的有名な書道家が書いた「教育勅語」があるだけです。これは関東大震災後に本宅を再建した祝いに書いてもらったとのことでした。
私は父方の祖父と会ったことはありませんでしたが、何となく祖父の気質が分かる気がします。
いずれにしても非常に豊かな家庭に育ちました。
(ちなみにうちには本家からの遺産とか、そういうものは特に受け継いだりしてません)

こういう家柄だったので、男兄弟は皆、大学まで行きました。
が、どういうわけか父だけ大学に行きませんでした。
親戚筋から話を聞くと、勉強は結構できたらしいです。
戦後まもなくとは言え、お金に困る家ではありませんでした。
父は何故か陸上自衛隊に入隊して、2年ほど勤務しました。その後、映画会社に入社しています。
ちょうど「保安隊」から名称が変更になった年でした。
当時の写真をよく見せてもらいましたが、全部アメリカ軍のお下がりで、富士演習場の富士山が今とは比べものにならないぐらい、とてもきれいでした。
父は当時中隊(200人弱)でたった3人しかいなかった自動車免許保有者でもあり、そんなことから重火器中隊に所属して、よく連隊長やお偉いさんの送迎を命令されたとのことでした。
どうして戦後8年、未だ軍に対するアレルギーが強かったご時世に、行くことが容易だった大学を蹴ってわざわざ自衛隊に入隊したのでしょうか。
当時は行きたくても行けない人がたくさんいたはずです。ずっと疑問に思っていました。

しかし最近、何となく理由が分かってきたように思います。
父はとても実践を重視する人でした。
無言実行型というのでしょうか。
母は多趣味だったので、父の定年退職後は父がよく家事をしていました。
父は母が他界した時も、翌日から普通に家事をしていました。
最近、家で禅の修行の一環と思って家事のかなりの部分を率先してやっています。
もともと家事はよくやっていましたが、ここ数ヶ月は自分でも怖いぐらいに真剣に打ち込んでいます。
実は父がどんなことを思っていたのだろうということが分かるかもしれないとも思ったからです。
おぼろげですが分かってきたような気がします。

私が記憶する限り、唯一、私にくれたアドバイスは留学するときでした。
色紙の寄せ書きに「気配り慎重に」と書いてくれました。
このたった6文字に父親としての無限の重み、奥深さが年々、ひしひしと伝わってきます。
私は人のアドバイスは安易に聞かない方ですが、一度聞いたアドバイスは徹底する方です。
素直ではなく頑固なのでしょうが、ともあれこれぞと思ったら離れないたちです。
父が去った後、このアドバイスは1日に何度も思い返して実践に努めています。
たぶんそれが父が生きていた証をより一層、高らかにするものでしょうから。


SD110217 不動庵 碧洲齋