忍城 -甲斐姫のこと-

相生の 松も歳降り 桜咲く
花は 深雪の 山ののどけさ


甲斐姫、忍城攻防戦を過ぎること8年、26歳の時に醍醐寺で開かれた茶会の席で詠まれた歌です。

私は専門家ではないのですが、これは多分、「相生の松も年月が過ぎ去り、咲いている桜の花は美しい雪の如く、山ののどどけさを彩っている」、と詠ったものかと思います。その茶会(醍醐の茶会)の時に桜が咲いていたのでしょうか、桜の美しさを綴っていますが、一体彼女は相生の松を何に見立てていたのでしょうか。相生の松(あいおいのまつ)とは根元から二つに分かれている松のことで、夫婦の象徴などとしてよく例えられます。遥か遠くの生まれ故郷か、はたまた想い人か。何と袂を分かったのか、とても気になります。

彼女が美しく武勇に優れた女性だったことはかなり間違いなさそうで、故に淀君の目に留まったことは確かに想像に難くありません。豊臣秀頼の養育係兼護衛係にしたことは本当のような気がします。1615年大坂夏の陣にて大坂城を秀頼の娘の奈阿姫を護って脱出後、千姫が助命嘆願を願い出た辺り、甲斐姫の人徳の高さが偲ばれます。甲斐姫は多分、自分からそんなことは願い出たりするような人ではないでしょうから。その後、後の縁切り寺として知られている鎌倉東慶寺にて秀頼の娘の奈阿姫ともども出家し尼僧となりました。奈阿姫は1645年に亡くなりましたが、彼女の墓の横にある従者の墓が甲斐姫の墓だと言われているようです。その墓石には1646年9月23日とあります。本当なら享年74歳。江戸時代はすでに太平の世を邁進していた、そんな時代でした。

10代の時に奮戦して上方の軍から奇跡的に城を守り抜いた。そして今度は敵方だった姫をやはり守り抜いたという事実は彼女にどう影響を与えたのでしょうか。私は彼女には多くの守護神や仏が付いていたような気がします。そうでなければおよそどちらも限りなく生存が難しい状況を生き延びることができなかったと思うのです。

戦に打ち勝ち、田舎から華やかな関西に上ったとき、彼女はどんなことを想ったのか。多分戦乱未だくすぶり続ける世にあって、どんなことがあっても生き延びようと思ったのだと、私には感じます。そのひたむきさが淀君の目に映り、奈阿姫を救い、千姫をして助命させたのだと思います。千姫の父はかの徳川秀忠でした。私は秀忠が結構好きです。家康のような創成の主でもなく、家光のような生まれついての将軍でもなし。人として武士として最上段に祭り上げられる事への畏れを持っていた人のように思います。そんな人間的な父を持った千姫には今に至っても非常に好感度が高い姫君として知られています。

今の世を嘆いたり恨んだりする人は多くあります。自らの出生、父母、家柄も同じように悲嘆に暮れ、怒り恨み辛み文句を言う人もいます。世のせい、他人のせい、家や親のせい。しかしそれでも、甲斐姫の生きた時代に比べたら本当にのどかすぎて笑ってしまうような時代です。日本では既に10代の少女が甲冑を着て薙刀を振るったり、天下人の側室にされたりすることはありません。大戦争ですら、どの大国も腰が引けてしまい、どんなに努力しても回避しようと努力します。そんな平和な世の中です。若者はせめて甲斐姫の万分の一でも今の人生を必死に生きてみては、と思うのでした。


平成二十四年霜月七日
不動庵 碧洲齋