忍城 -正木丹波守のこと-

私は数年前に成田氏が主だった頃の忍城家老、正木丹波守利英を知ったときから彼に興味を持ちました。
槍の名手であり、忍城攻防戦後、臨済宗の寺院を開基した辺り、何となく親しみを感じました。
私自身、槍もヘボいですし、禅もちょっとかじった程度ですが、正木丹波もきっと禅などもやっていたのかなと思ったりします。

「のぼうの城」では佐藤浩市さんが演じました。
「のぼうの城」がとても好感が持てた理由の一つは、のぼう様こと成田長親も正木丹波も、映画の中で他のキャラと違って、非常によく民衆たちを見つめるシーンが多かったことです。私はこれは限りなく史実であったと思っています。
侍には幾つか種類があります。あると思っています。

一つは忠義に篤い者。
一つは武功の誉れを尊ぶ者。
最後は民衆を守る、領地を守る者。

最初は一番一般的な侍、二番目はいわゆる武芸者としても名高い人たち。
私が数年前から着目したのは3番目の人たち。忠義に篤いとしたらそれは草民を守り、彼らの生活を安堵させてやることに忠義を尽し、武功の誉れがあるとしたらそれもやはり、領民を守りきったところにある、そんな種類の侍だったと思います。

忍城の家臣団は攻防戦後にどうなってしまったのでしょうか?この頃、世は未だ戦火冷めやらぬ戦国の世です。現に国内最後の戦いであった大坂夏の陣は忍城攻防から25年。その間にも関ヶ原を始め幾多の戦いがありました。忍城攻防戦に参加した武将たちはこぞって忍城家臣団を迎え入れようとしたはずです。そしてそれはその時の武将にとって普通の習いだったと思います。

不思議なことに豊臣軍が唯一落とせなかった忍城家臣団たちのその後は分かっていません。
北条も上杉も豊臣も落とせなかった程の城の家臣団です。
破格の条件を示した武将もいたはずです。
しかし忍城家臣団は歴史に足跡を残さず霧散しています。
私はずっと気になっていました。

土地柄、板東武者はことのほか土地というか郷土を愛した防人だったのかもしれません。
自分たちの土地を離れるぐらいなら、上方で功を成して武勇の誉れを求めないことなど、実は大したことではなかったのかも知れません。
よくよく考えれば武士の発祥は土地に関連しています。
織田信長という天才のために武士は土地から切り離されても遠くまで遠征できるようになってきましたが、やはり当時は生まれ故郷との絆は深かったのだと想像します。

正木丹波守は攻防戦後、臨済宗の寺を開基しています。彼程に武勇に優れた男なら、どこの武将でも欲しがったはずです。多分、幾つかスカウトがあったはず。しかし彼は成田長親にすら従わず、どこぞの武将にも就かず、高源寺を開基した以外、何も分かっていません。高源寺は別途僧侶を招いて住職して頂いたそうですが、もしかしたら正木丹波は寺男になったか一介の農民になったか、はたまた僧にでもなったのかも知れません。何も分からない、これが意味することは、少なくとも彼、彼らが普通言われる武士の誉れを求めなかったと言うことの証左にはにはならないでしょうか。

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今も開基した臨済宗円覚寺派高源寺にある正木丹波守の墓所

私は一埼玉県民として、武功や槍術を誇らず、敢えて無名に没した彼らを誇りに思います。


平成二十四年霜月七日
不動庵 碧洲齋