99.9%と100%は質的に違う

今朝は久しぶりに息子と「すねえもんの旗」を鑑賞しました。
「すねえもんの旗」は私が尊敬する友人で絵本作家のときたひろしさんが描いたものです。
この作品はweb絵本形式なのですが、できたらその内ちゃんとした絵本として出版して欲しいですね。
http://tokitahiroshi.com/suneemon.swf
息子も十分に感動してくれたようです。来年は強右衛門ツアーに連れて行きたいと思います。

今回は重複したことは書きたくないので、強右衛門に関することは以前のブログをご覧ください。
http://fudoan.at.webry.info/201001/article_3.html

今回もまず長篠城に行きました。
しかし前回行けなかった豊川のほとり、宇連川の合流地点の所まで降りました。
強右衛門は今で言うところのJR飯田線の鉄橋の真下当たりから川に降りたと言われています。
降りた所から豊川側を見上げると、JR飯田線の鉄橋があり、宇連川側には橋が架かっています。
また、その橋の向こう側には現在建設が進んでいる新東名の巨大な橋が連結寸前になっていました。
長篠城の野牛郭と本丸の境がちょうど、現在のJR飯田線が走っていますが、昔はその当たりに厠があり、川に排泄物を流していたとか。実際、人糞は貴重な堆肥だったので、当時であってもリサイクルが不可能なゴミなどを捨てていたのではないでしょうか。強右衛門とその友人鈴木金七は夜中にそこを下り、武田軍が川に埋伏した竹の逆茂木をかいくぐって5キロ程度離れた所まで泳いだそうです。上陸地点も分かっており、JR飯田線の三河東郷駅から一番近い岸辺に上がったようです。ちなみにそこが当時徳川軍の最前線でした。
往路は川の流れに沿って進んだため、たぶんそんなに長距離を歩くことはなかったようですが、復路はさぞ大変だったと思います。川が使えないので潜入しつつ城に近づこうとしたようです。
実際、長篠城は対岸から石を投げて届く距離です。行くのが簡単な反面、敵に悟られないように帰還するのも難しいことでしょう。
強右衛門は長篠城を見るまでもなく捕らえられたようです。
個人的に私は武田勝頼がそんなに無能だとは思っていません。比較対象が武田信玄だったところに不幸があるように思います。ましてや元々庶子で跡継ぎになる予定がなかった勝頼なので、やや強気に出て勝ってその資格があることを証明しなければならなかったところに悲劇があったのだと思います。
そしてこのときも焦っていたように思います。まさか勝頼もたった一人の足軽をきっかけに、一大決戦に大敗して、栄光から転げ落ちるなどと、思いもよらなかったのかも知れません。

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強右衛門と友人の金七はこの右側の岸から夜の川に身を忍ばせました。左岸には武田軍がひしめいていたことは言うまでもありません。

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降りてすぐの宇連川合流地点。竹の逆茂木が大量に埋設されていました。流れは速いようです。今は見ての通り遠くに巨大な新東名の建造物が見えます。

迂回して豊川の反対側には最初に埋葬された新昌寺があります。2年前とは打って変わり、強右衛門の記念碑のすぐ後ろから磔現場記念碑の広大な土地は新東名の建設現場になっていました。勝頼の旧陣地の上を新東名は通るわけです。その保証金が出たのでしょうか。新昌寺はあちこちきれいに修繕されていました。記念碑は甘泉寺の墓所よりもずっと立派です。隣にはそのときに戦死した侍の墓も移設されています。磔現場記念碑のすぐ前には少しだけ茶畑があります。そしてその先は新東名が走ります。時代の流れですね。

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強右衛門の磔現場。今は木々が生い茂っていますが、それがなければ対岸の長篠城は石を投げても届く距離です。

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石碑からの景色。手前に少し茶畑がありますが、その向こうは全部新東名が通過する予定です。

ま、それはさておき。
このとき強右衛門は36歳。もしかしたら元服前後の息子などがいたのかも知れません。
深い谷川を挟んで父が磔になり、それでも援軍到来の報を知らせたが為に殺された現場をその場で見ていたのかもしれません。重ねて言いますが、磔現場と長篠城は弓で十分に届く距離ですし、手慣れた人なら石を投げても届く距離です。むろん、ちょっと大きな声であれば余裕で届く距離です。そんなところで強右衛門は義を貫き殺されました。子供達はどんな思いで父親を見ていたのでしょうか。奥方はどうしたのでしょうか。

結果、たった一人の足軽のために、武田軍は長篠城を落とせず、そればかりかあのような大軍が織田・徳川連合軍迎撃のために設楽原に去っていったことを思うと、強右衛門の果たした役割が大きいことが分かります。

この戦の後、強右衛門は磔になった現場からすぐ傍にある新昌寺に埋葬されていました。しかし強右衛門の奥方は故郷の亀山城付近に戻りました。そして関ヶ原の戦が終わった1603年、息子の意向で強右衛門の遺体は奥方の菩提寺でもある甘泉寺に移されました。世の大乱が終わったのだと、息子は思ったのでしょう。もしかしたら強右衛門の奥方が亡くなられたのを機に思い立ったのかも知れません。立派に戦死した父親の息子ということで恐らく強右衛門の没後まもなくであった頃から割に高く召し抱えられたようですが、息子はもしかしたら父が為に栄光から転落していった勝頼に思いを馳せたのかも知れません。勝頼も父が為に一度は栄光の座を勝ち得たものの、強右衛門の活躍をきっかけに坂を転がり落ちるような悲惨な終末を迎えてしまいました。二代目はきっと万事慎み深かったのではないかと推察します。
その根拠は江戸に入ってから鳥居家の子孫はどこの藩からも老中にと引っ張りだこだったほど、政経に優れていたようです。のぼうの城で一躍有名になった忍城にも、江戸時代、鳥居強右衛門の12代目が老中として働いていました。むろん、今でも子孫は健在だそうです。
先祖の名を汚すことなく、行いを慎む。やはり先祖を敬い、人との和を大切にする。鳥居家の人間はこれに優れていたのかなと思ったりしました。
私の息子はそうしてくれるでしょうか?それはひとえに私の言動、生き方にかかっていますね。

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新昌寺にある強右衛門の記念碑。そのすぐ後ろが新東名の側道。完成すると背後は全て新東名の大きな建造物に覆われる。

甘泉寺は臨済宗の寺です。一時期は中本山クラスの寺にもなり、なかなかの風格があります。
初代鳥居強右衛門の墓所は開山堂の隣にあり、やはりこの地に葬られている檀家の中では別格です。夫婦そろって墓石が建てられていますが、きっとよい夫婦だったのだろうと想像します。実は強右衛門の生まれは豊川市市田町であるとされています。現在、そこにある松永寺には強右衛門の木像が安置されています。たぶん、長じて足軽になるべく、豊川よりも山間にある亀山城に移り住んだようです。恐らくそれは成人してまもなくだったでしょうか。時勢柄、兼業農民は世の常だったと思います。一旗揚げようとかいうよりも、生活のためだったようにも思います。

一方、強右衛門の奥方の生まれは甘泉寺のすぐ前辺り、地名は市場、亀山城下の市場だったのでしょう。強右衛門も足軽でしたから市場にはよく行ったはず。きっと奥方とは市場で知り合ったのではないでしょうか。今は遠くに亀山城が見える、道の駅がある程度のひなびた場所ですが、そんなロマンもあったのだろうと想像します。そして強右衛門はそこで家族を作りました。奥平家はその間、何度も帰属先を変えてきましたが、それも世の常。強右衛門は昨日の敵は今日の友とばかり、あちこちの戦場に出ては帰ってきたのだと思います。そして奥平氏が山を降った長篠城に城替えを命じられたとき、強右衛門は一族郎党で従っていきました。長篠の戦いが始まる2年前でした。

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亀山城跡 奥方の故郷で強右衛門最初の勤務地。市場もすぐ傍にある。

今回甘泉寺に行った時は庫裏に声をかけたところ、ご住職と奥方に応対していただきました。
そして草加せんべいをご供養したところ、鳥居強右衛門の位牌を見せてくれると言うことで拝見させていただきました。
戒名「智海常通居士」もしかしたら足軽らしからぬ晴耕雨読の人だったのかなとも思いました。
甘泉寺には室町時代に絹に描かれた涅槃図があり、特に見せていただきました。たぶん2メートル四方ぐらいの大きなもので、普段はスクリーンがかけられています。県の重要文化財に指定されているそうです。非常に素晴らしい仏画でした。甘泉寺に行ってお願いすれば見せてくれます。
強右衛門と奥方は亀山城にいたとき、これを見たのでしょう。ちょっとしたデートスポットだったかも知れません。この異国情緒あふれる涅槃図や仏を観て何を想ったことでしょう。

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鳥居強右衛門の位牌。戒名「智海常通居士」

当時にあって、強右衛門のような選択、行動は別段褒めるほどでもなく、ごくありふれたものだったかも知れません。もしかしたら別命は強右衛門だけでなく、数人、城から放たれたのかも知れません。名もなき足軽達は粛々と任務を実行して死んでいったのかも知れません。与えられた使命を全能力を賭けて遂行する。そこには1ミクロンの邪心もなく私心もない。今でこそ我々はあっぱれなどと上から目線、したり視線で爽やかなる生き様に対してとやかくうらやましげにものを言っていますが、そういうシンプルさを渇望する我々はたぶん、救いようのない冥府魔界にでも棲んでいるのでしょう。

99.8パーセントと99.9パーセントは単純に相対的な数値の違いに過ぎませんが、99.9パーセントと100パーセントは相対的な数字の違いではありません。絶対的に質が違います。純度100パーセントの鉄は錆びません。現代では用途に応じて色々配合されているので純度100パーセントの鉄というの作らないそうです。また、純度100パーセントの水は電気を通しません。だから99.9パーセントから100パーセントになるときは性質そのものが変わることがあります。人の心もそのようではないかと日頃から信じています。たとえばイエスキリストの愛もその100パーセントの部類だと思います。仏教ならもしかしたらそれが悟りの境地なのかも知れません。私の修行の根拠もそんなところから来ています。100パーセントを求むるべきか否か。そういう意味であれば人は須くそれを目指すべきだと思っています。そしてそれを目指しているか否かで峻別されるような気がします。むろん、人には天の時があり、それを知り求め始める時季も違いますが。

昨今、時代祭が盛んになり、煌びやかな甲冑衣装に身を飾りながら古の武士達に思いを馳せることはもちろん、とてもよいことですが、こういう無名の足軽達の無言実行こそが真に尊きものではないかと、最近はよく思ったりします。誰もがスポットに当たりたいと熱望するものですが、スポットライトなどあったのかと、涼しげに云える人生に、より多くの魅力を感じ始めて来た今日この頃です。


平成二十五年正月四日
不動庵 碧洲齋