平成二十六年度 臘八坐禅会 三日目 所感

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私は学習する理由を息子に尋ねられるとき、よく言う喩えがあります。
それはなるべく大きい尺度を持つため、と言います。
筆箱に入る15センチ定規ではその長さのものしか計れません。
30センチ定規でも計れるものは限られます。
工事現場で使われるメジャーであればまずまず。
地図であればどうでしょう?
インターネットの世界です。googleマップであれば本当の意味でグローバルです。
学習は空間を超えます。時間を超えて過去にも未来にも尺を当てることができます。
尺度をたくさん持つ人、もしくは長い尺度を持つ人は、そうでない人とは確実に違う世界が見えているはずです。
これが息子に言い聞かせている、「人が死ぬまで学ぶ理由」(のひとつ)です。

臘八坐禅会も3日目になりましたが、いつになく好調です。
臘八示衆 第3日目には私が好きな一句があります。
「又坐禅は一切諸道に通ず。若し神道を以って之を云えば則ち身は即ち天地の小なるものなり。天地は則ち身の大なるものなり。天神七代、地神五代、並に八百万の神悉く皆心中に鎮坐せり。」
坐禅は色々な道に通じる考えがある、ということです。故に昔の武士の中には禅をした人もいるようです。個人的には武道をしているからステータスで禅もやってみたいという向きには大いに反対ではあります。そういう体で禅はやらない方がいいと思います。シビアに言うとそういう考えで禅をしても多分時間の無駄です。
臘八示衆では神道に例えるなら、私たちの体は天地宇宙が収斂した姿だと言うことです。天地宇宙は私たちの体が自然に顕れた姿だと言うことです。体をいつも清潔にしていないのは、公害が発生しても平気でいるようなもの。風呂好きが自然を大切にするというのもうなずけます。物事の正邪を自分で考えるときは誰でもよく考えていることと思いますが、マクロスケールにスケールアップして普遍性を考えたり、スケールダウンして身近に考え直してみると、より分かりやすくなります。

天地が私を短い時間、演じています。今の世相が私たち人もありようです。そう考えると、この臘八示衆の文句がリアルに理解できようものです。我が身のように天地を自愛する、天地のように我が身をどっしり構える。自分自身の在り方を考えるときこのくらいパーフェクトな論理はないように思うのです。そうすれば軽々しくなりませんし、いい加減にもできない。さりとて息苦しく融通が利かなくなるわけでも無し。自然の摂理を推し量り、なるべくそれに沿って生きていく内に人としてより完成されてくるような気がします。


平成二十六年師走四日
不動庵 碧洲齋