平成二十六年度 臘八坐禅会 六日目 所感

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現代の文明の利器は、何がどう弊害なのか色々考えてみるとこれはまず一つに尽くように思います。
「何でも簡単に手に入る」

例えば服。150年ぐらい前までは原材料を揃えて機織りの準備をして、それから機織りをしますが、少し勉強して知った限りでは、機織にかけるまでの下準備の膨大な労力は、現代人からすると気が遠くなるほど。ドラマや映画では女性がパタンパタンとのどかに織っている風景しか見ませんが、実はそこに行き着くまでが極めて大変。そう考えてから改めて「鶴の恩返し」を読むと、恩義の深さが分かろうというものです。
お米。米を作る手間暇は農家だったとしても、米を買ってから籾殻を落としたり入れ物に入れて突いて精米したりと大変な手間が掛かった上に、炊飯も薪を用意して釜に付きっきりになってやっと出来上がります。
交通機関。江戸時代、人が乗れるのは「舟、籠」ぐらいで馬は武士であっても上級でないと乗れませんでした。だから江戸時代の人の多分99%は徒歩だったかと思います。今私も結構歩きますが、距離にすれば1日平均昔の2里(8キロ)以下。江戸時代とは言わず明治時代の人から見ても笑っちゃいます。

私の師匠が言ったことがあります。現代ほど見照に向かない時代はない、と。
昔の人はたくさんの情報はもちろんなく、移動するにも食べるにも大変な労力を要しました。
ほとんどが単純労働です。故にその生活のほんの延長線上に悟りがありましたが、現代では違います。
市井の市民ですら地球規模の膨大な知識を持ち、その気になれば1日で何千キロ彼方の場所に肉体労働をほとんど伴わず行くことができます。
着るもの食べるものもお金があれば労なくして得られます。
修行に効率を求めてはいけないというのが真理であるなら、この世(ここでは日本という意味ですが)は修行に最も適さない時代と言えます。
だから現代は修行をする場所と時間を人為的に作り出さねばならないほど逼迫していると言っても過言ではありません。もちろん、日々の生活の営み自体も立派な修行として私もそのようにしていますが、古の意味の修行にはほど遠く。昔の人たちが日々営んできたところを埋め合わせようとするなら、膨大な手間暇が掛かるわけです。師は絶望的なくらいだと言ってました。
何でも楽にものが得られ、移動できると言うことに畏れを抱かず生きることに、もしかしたら最近の日本人は何かおかしいと感じているのかも知れません。

土曜日は息子と二人で自転車で寺まで行きました。片道12キロです。本格的なロードサイクルならそれほどでもないのでしょうが、私のクロスサイクルでは決して楽ではありません(もう慣れましたが)。ましてや息子にしてみたらとんでもなく遠い距離のハズです。実際に去年までは車でよく連れて行きましたから、どれほどの距離であるかは知っています。往路はゆっくり時間をかけて行きました。着いてからほどなくして最初の坐禅が1時間。正式には30分弱ですが、子供にとってただ何もせず坐っていると言うことは普通なら結構な苦痛に感じるはずです。その後にもう30分。足の痛みは限界ではなかったかと思います。

提唱の後、茶礼の時に先輩から息子に質問されましたが、この大変な行事については半分自分の意志、半分私の命令と言っていました。全部自分の意志だったらそういう神童ぶりは戒めるべきですし、全部私の命令だったらこれまた子供に何かしいているという悪弊があります。半分は自分の意志。これでいいと思います。この苦しさの果てに何かがあるはずだという確信があれば良いのです。大変そうなことでもいやなことでなければよいと思います。帰路に就きましたがこれまた遥かな距離。しかも時間は21時を回っていました。家に近いところでファミレスに寄り、好きなものを食べさせました。家に着くと布団を敷いて体がほぐれる程度に風呂に漬かり、布団に入ったとたん息子は爆睡しました。帰宅してから何度も褒めました。普通の大人でもなかなか大変なことです。小学5年生だったら尚更です。

原義は違うと言うことはよく存じてます、とその道の専門家たちに明言しておきますが、このような大変な修行は「苦行」とも取れますが、この漢字「苦」はなかなか良くできているなと感心する次第。
「古」に「草冠」があります。古の人々や古の知恵を讃えているかのようです。単に厳しい、辛い、大変と言うだけではない、というのが「苦」ではないかとすら思います。日本茶の「苦み」も「苦」ですね。そう考えると「苦」の織りなす概念の奥深さに想いを馳せます。

臘八坐禅会6日目のお題はお茶の苦みから苦行についてでした。まあ、これあるから息子をぜひこの日に自転車で連れて行きたかったというのがあります。白隠禅師もお茶の苦みから苦行を語るとはなかなかお茶目だなと思います。この現代では苦労は買って出ることでもしない限りはなかなか得がたいものです。坐禅会の往復は寒く、息子には辛いものでしたが、帰路に見えた夜空は十分、それに見合うものでした。非常に明るい月が彼方に見える入道雲を燦々と照らし、雲がまるで雪を被った山々のように見え、大変神々しい景色でした。二人ともしばらく川沿いの道からそれを眺めていました。大人になったとき、苦しい思いをして何かを得ることの尊さ、神々しさを思い出してくれれば良いと思います。


平成二十六年師走八日
不動庵 碧洲齋