目となり耳となり

憲法第9条について。今まで機会があった同門外国人たちに何が問題かを説明してきましたが、問題以前にこの憲法第9条の内容に驚かなかった人はいませんでした。大抵は聞き間違えか私の英語能力に問題があるんじゃないかと聞き返してくることもあります。
もちろんこの憲法を擁護した外国人はいません。同門が軍人だったときなどは呆れてモノが言えないというレベル。

個人的には人類の究極理想の形の一つとしてはなかなかの部分があるとは思いますが、あくまで理想の一つ。生身の人間が生活を営んでいる一国家の憲法としてはやはり異常で、採択されるべきものではありません。

自衛隊をそんなに酷使しなくても済む方法がないわけではありません。
自衛隊の予算と同じぐらいにお金は掛かるかも知れませんが、人員は少なくてもいいかもしれません。
一言で言うと究極に優れた情報収集機関の創設と優れた外交能力を持った人員の育成、民間企業でも海外部門の人間にはできる限り優秀な人間を使う。
こんな感じです。

どうしても自衛隊を使わせたくないというのであれば、CIAや旧KGB、MI6やモサドを凌駕するインテリジェンスエージェンシーを創設して国家安全保障のために活動させる。
その上で攻撃的、積極的な外交政策を行い、外交的攻勢防御で敵を作らなかったり敵を防ぐ。
こういう形になると思います。あくまで自衛隊をなるべく使わないのであれば。
私はこのような組織のレベルが上がっていくなら自衛隊の戦力は減らしてもよいと考えています。そもそも現代、ドンパチをやって国家存亡の雌雄を決するなどと言うことはあまりなく、世界が狭くなった分だけどこの国も軍事力の使用には恐ろしく慎重になります。だから軍隊の数量を増やすよりも情報収集と操作の方により重点的に予算をかければ確かに軍隊の力は少なくて済みます。

少数精鋭というのは資源の集約化で人もカネも効果的に使えます。ただし他国を遥かに凌ぐレベルでないと意味がないので、そこが難しいところではありますが。

残念ながら今の日本は普通の先進国レベルの平均にも達してないでしょう。
簡単に言うなら70年も戦争をしていないのだからスパイなどの技術もそのレベル。海を見たことがないのに航海術を学ぶようなものです。
そんな高級なレベルはマズしばらくは無理ということにしておきましょう。

私は今まで銃を向けられたことが2回、真剣で対峙されたことが2回あります。
銃は一度は散弾銃でもう一度は拳銃です。留学中のことです。
散弾銃は留学中、たまたまヨルダンのクラスメート宅(アパート)に行ったとき、何かの話しでドロボーが入ってきたらとか、そんな他愛のない話になったとき、彼はおもむろに壁に掛かっていた散弾銃を手にして私にまっすぐ向けてきました。
こんな風に狙って撃つようなことを言っていたのですが、最初に部屋を訪れたときに銃が掛かっていたので興味を持ち、それは本物かどうか尋ねた折、彼は触らせてくれて中に散弾が込められたのを目で見たばかりでした。
銃を向けられたときの恐怖というのは本当に恐ろしい。
恐怖で舌が引きつって、声も出なかった。辛うじて息が出来ただけ。10秒近くしてから英語で「オイ止めるんだ、何バカなことやってるんだ。」と絞り出すように言いましたが、今度は安全装置まで外す始末。心臓が止まるほど怖かった。相手は笑いながらやや上気していたので余計に怖かった。このときばかりはイスラム教徒はこんな奴らなのかと思ったものです。
まあ、彼は結局仲の良い友人になりましたが、祖国ではそういうことを遊び半分にやってしょっちゅう死傷者が出るそうです。
もう一度はアメリカ人の友人宅に行ったとき。やはり何か話しの話題で小型のリボルバー拳銃を友人が取り出したとき、やはり弾丸が込められた状態で向けられました。二度目でしたがやはり本当に怖かった。ま、二度目だったので最初ほどではありませんでしたがそれでも本当に怖かった。
真剣を向けられたのは拳銃ほどには怖くなかったので割愛します。

敵意がなくても武器を向けられることぐらい怖いものはありません。
敵意があったら尚更です。

そういう危険な場所にフリージャーナリストなどが赴くのは一般市民に紛争地域の様子を伝えるため。新聞社やテレビ会社の社員はリスクが高すぎて行かせられません。先日もテレビ会社の友人が言ってましたが、そういうフリーランサーなくして、このような危険地域の情報は得られないと言うことでした。

それでなくとも日本人はあまりにも長いこと戦争から遠ざかっています。
今ほとんどは祖父の戦争体験を耳にしたことがあるという程度でしょう。70年前の戦争です。
しかし今でも主要各国の兵士が死傷しています。あまりテレビに上がってないだけで、紛争地域ではしょっちゅう起きています。道場にやってくる海外門下生たちから、私はよく戦場の話を聞きます。さっきまで実際に戦争をしてきた人たちの雰囲気というのは一言で言うとすさまじい。普通の日本人ならびびってしまうレベルです。私はもう慣れましたがそれでも確かに心地いいものではない。

湾岸戦争時、留学中でしたから街の出征者で戦死した人がいました。送葬パレードをしたのを見ました。戦争で死んだ人がリアルに目の前にいるという事実に衝撃を受けたものです。
二人目のルームメイトのお父さんはベトナム帰りでした。クリスマスの時に彼の実家に行った折、家を飾り付けるため、ガレージの工具箱を開けたところ銃剣が入っていました。しばらく見つめていたらお父さんがやってきてぼつぼつ戦場の話しをしてくれましたが胸が痛かったです。

オレゴンの山奥には今なお適応できない、いわゆるランボーおじさんたちが大勢いました。日本だったら戦後になって20年、社会に適応できなくて山奥で暮らすなんて甘ったれた事言ってんじゃねぇ!という感じですが、こういうところはアメリカ人はとても脆い。勝っても負けても乗り越えて邁進できる日本人とは全然違うのです。

そういう経験のある人が近くにいるかどうか、接触があるかどうかで戦争のリアリティーというモノが変わってきます。そういう意味では日本で繰り広げられている戦争論やジャーナリストの殺害について交わされる議論はある意味現実味に欠けている感慨に襲われることしばしば。

その逆もあります。空襲を受けたことがないアメリカ人たちにとって、一般市民が巻き込まれるという感覚がいまいち鈍い。核兵器の威力も国家政策のごとくソフトに書かれています。だから広島に来たときなどはショックのあまり声を失うのでしょう。

故に戦場から生の情報を持って来て紹介する人たちの活躍は尊いと思います。

彼らの活躍に正しいとか正しくないというのは、高さを測るのに体重計を持ち出すようなものです。意味がない。あるいは見方が間違っている。
市井の人々になるべく事実を見せるのが彼らの役割であり、そのために危険な思いをして出掛けています。もちろん功を成せば有名人にはなるでしょうが、そんな気持ちではとうてい折れてしまいそうな気がします。

日本がこれから積極的に海外の国々と関係を強め、交流が頻繁になってくれば当然このような危険も出てきます。日本政府の采配一つと言いたいところですが、イスラム国のような場合は正直限界があります。日本が海外にもっと進出していくのは正しいことですが、犠牲が付きものだと心得てください。そして自分の身は自分で守るしかない。

遠回りではありますが、日本人の凄い部分、素晴らしい部分を世界に広めることで感服させることは出来ます。実際、それは今でもかなり功を奏してきています。現実に中国や韓国でもあれだけ反日にも拘わらず、観光客数は増えていますし工業製品も日本なくしては成立しません。こういう事をもっと広げていけばよいのだと思っています。
軍事力を増大させることは今の日本には易しい。しかし他の国と同じ土俵に上がる愚を犯すことで日本にしかない品格を失うかも知れない。全く増やさないわけにはいかないというレベルに達してはいますが、日本人たる者、かなり難しくとも武器に頼らぬ方法で和を通して行きたいものです。


平成二十七年如月二日
不動庵 碧洲齋