右と左

最近は自分でも嫌になるほどに国際政治について書いてしまっています。
まずまず国際派のつもりではいますが、元々そんなに国際情勢に書くことはなかった。

門下に相当偏向した思想を持った弟子がいました。
ブログでそれとなく書いてきましたが一向に改まる様子もなく。
誰か何かを見る度に右とか左とかで評論し始めるのでウンザリしていました。
基本、弟子の思想にいちいち口を挟んだりしませんが、当流は国内でも有数の国際派の流派として良く知られています。テレビにもよく外国人が多数在籍する流派として有名です。
そんな中であまりにも偏向したものの考え方をしていては本人はともかく、流派の武風を損ねる。
そういうことで真意を質した上で道場を辞めて頂きました。
希望して受け入れてくれるなら他の道場に行っても良いとは言いましたが、難しいでしょう。

右とか左という判断に忙しい人は大抵、まっすぐ目の前の大問題に気付かず、正面の壁に頭をぶつけかねない体です。危うい。
私は不偏不党のつもりではいますが、それはどっちつかずという意味ではありません。例えば明らかに国益に反する行為をあからさまにしている政党や組織があれば断固反対しますが、人肉探しの如く、密告によるスパイ捜しの如くであってはならないと思っています。
万事寛容と和を以てすべきだと思います。甘いと思うかも知れませんが、30年近く外国人と付き合い、何年か海外に住んだり、海外に行ったりして思ったことです。それは日本人がやって初めて意味があります。他の国の人ではダメです。世界で最も裕福な国の一つ、世界で最も古い国の一つ、先進国で長いこと戦争をしていない国、世界で唯一エンペラーを戴く国、世界に最も高品質な製品を送り出している国、色々ありますが、そういう国の国民だからこそ、言動を重く見られます。海外ではもとより、このような時代では国内であっても常に海外に見られていると思うべきです。

聖徳太子が制定した十七条憲法の一つ目です。
一に曰わく、和を以って貴しとなし、忤うこと無きを宗とせよ。人みな党あり、また達れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父に順わず、また隣里に違う。しかれども、上和ぎ下睦びて、事を論うに諧うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
今風に言えば:
一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ。

まさにこれに尽きます。
戦争をしてはいけない、という事ではありません。戦争は起きます。かの孔子ですら軍備を持つことには肯定的でした。それでもギリギリまで上記の如く信念を持てば、戦ったところで負けません。初めから敵ありき、初めから戦争ありきでは負けます。戦う備えをして戦わず。サムライで言えば刃を鞘に収めて勝つことです。日本では抜いて勝っても場所が悪ければ負けたのと同意義になります。抜かずに治める。日本では勝つということは相手を打ち負かすことよりもその場を治めることに重点を置きます。持つことが悪いのではなく、極力使わない努力とできる限り正しく使おうとする努力とその精進。このような価値観念を尊重することは日本人として重要な事です。
先の大戦では手痛い敗戦を被りましたが、70年経って日本はアメリカよりも平和な国です。日本には負けるが勝ちという言葉があります。私が知る限りでは他の国にはそういう言い回しはないようです。

このところ世界は不穏な事が多くあります。
世界的大国である日本だけが人的被害を被らずに済んでいることを本気で快く思わない国も出てくると思います。
最近はあまり国連常任理事国に対する熱意も冷めてきた様相ですが、もしその席を狙うならそれなりの犠牲を伴う覚悟が要ります。予算だけ出して、危険のないところにだけ派遣しただけではとてもとても、国連の真の重鎮たることはできません。他国からすれば痛み無しで常任理事国などは以ての外です。

一方で私の願いは別にあります。
このままでいくともしかしたら第9条は改定される可能性が出てきました。
前のブログにも書きましたが、単に軍備を正当化して、他国同様に動員可能に出来る、という程度なら今のままの方がよほどよい。日本が目指すべきはそういう低いレベルではありません。他の国と同じ土俵に立つ為の改憲であってはならないと思います。そういう安いことをしたら多分、世界の国々からの信用はがくっと落ちることは間違いないと思います。
うまく言えませんが、サムライの刀のような意味合いの軍備であるべきだと思っています。故に日本人はそれこそ武士のよき伝統を継承しなければならないかも知れません。

立花隆氏の著書に「宇宙からの帰還」という素晴らしいものがあります。アメリカの宇宙飛行士をインタビューした内容をまとめたものです。大変素晴らしい本です。その中で誰だったか、「違いはローカルなものに過ぎない。宇宙の本質的なものは同じである。」と言っていた方がいました。その通りだと思います。違いをあげつらって争いのネタにするのは間違いです。本質は同じもの、その上での違いは争いの為にあるのではなく、世の中をもっと変化のある美しいものにする為だけにあると思います。だから人は違いがあることの意義を誤認識しているのかも知れません。

故にそれあっての「和」だと思います。
日本の雅号でもあります。偶然なのかなんなのか、とにかく長いこと私たちは和の国の民です。多くの場合、多分、何千年も前から和の民だったと思います。その私たちが率先してそれをせずしてどこの国がそれをするというのか。これは私の信念でもあります。

和とは名ばかりで、人肉調査や密告のように親日反日、右翼左翼、保守改革、敵味方と切り分けに右往左往しているようでは到底世界中の民からの敬意を勝ち取れません。世界中の人々からの敬意を勝ち取ること、信頼を得ることが軍事力の大きさ、行使頻度を反比例させます。

日本人であると言うことはどういうことなのか、日本に誇りを持てとか、自分の国を愛するとか、自分の国に自信を持てとか、そんなチープ過ぎる文言には答えは微塵も含まれてないと、私は思います。もっと身近で日常的なところに私たち日本人の日本人たる所以が脈々と息づいていると感じ取りたいものです。


平成二十七年如月六日
不動庵 碧洲齋