国の際に立つということ

私が初めて電子メールアドレスを持ったのは1997年頃だったでしょうか。実際によく使うようになってきたのは98年頃だったと思います。その頃私は豪州に赴任していたのでパソコン通信で日本と豪州、東南アジアで日本語学校の同僚らとリアルタイムの交信をしていました。日本国内で友人らとメールのやり取りをする事に比べると、IT時代の突入感というか、新時代の到来を衝撃的に感じたものでした。また、それと前後して海外の同門らともメールでの交信が徐々に増えてきました。留学時代からその辺りまで10年ぐらいでしょうか、手書きやタイプ打ちなど様々でしたが、それをポストや郵便局に預けてから届くのに早くても5.6日、アルゼンチンだと2週間ぐらい掛かったものでしたが、電子メールはほとんど瞬間的です。この技術は今なお恐るべきものがあると感じます。特に海外に多くの友人がいるのでITは必要不可欠な道具です。昨今ではSNS、特にフェイスブックを多用しています。国内外ではSNSを中毒のように見なされる場合もありますが、私(多分他の日本人同門も同じだと思いますが)が年に1.2回、もしかすると数年に1度しか来日できない友人らの顔や近況をリアルタイムで知ることができ、話題を共有できると言う技術は彼らにとっても有難いことですし、私も大変助かっています。ITによって地球上の(軌道上で周回しているISSですら!)時間と空間の概念が一気に打ち壊された感があります。国際社会に多くリンクしている人にとってはITは革命的な大躍進と言えます。

という前振りですが、本題はITなどの話しではなく。
私は仕事でもプライベートでもかなり多くの国の人とネット上や実際に会います。多分今までに100ヶ国近くの人とは会ってきたと思います。
仕事でもプライベートでもそうですが、実際に会って話してみると「○国人だから」というフィルターはかなり薄れます。WASPでもひどいヤツはいます。中国人でもすごく義理堅い人もいます。韓国人でも大変親日な人もいます。そもそも訪日観光客の4割以上が中韓で占められていますし、世界の日本語学習者総数のうち、中韓がベスト5から外れたことはたぶん一度もありません。まあ、それなのに国家が反日を謳っているのはなかなか興味深いことではありますが、国家として「利益がある」から他なりません。文化が優れているとか興味があるとかでは無いでしょう。それは市民のレベルです。市民の力が強くなったら変わってくるのではないかとも思います。

話が逸れました。
私が実際会ったことがあるのは例えば、「ジョンさん」「ウラジミールさん」「グスタフさん」「シャルルさん」「劉さん」という個人に過ぎません。その人を通じて彼らの国がどんな考え文化、風習を持っているのかを垣間見るしかありません。つまり「アメリカ人」「中国人」「韓国人」「ロシア人」なんていう人はいません、と言いたいわけです。国際社会の最前線に立っている多くの人は多分、同じように感じているのではないでしょうか。
もっと突っ込んで言います。日本人はよく「平均値」「普通」という単語に飛び付きますが、それは多分日本人が他国に比べるとかなりまとまった1民族、1国家、1文化でかつ太古からずっと絶え間なく続いている国家だから。そういう国であればこその「平均値」「普通」ですが、例えば植民地国家ではそういう値は参考にもならない事が多い。植民地国家でなくとも多民族国家でも同じ。いや、主要な2民族が共存している国家でも「平均値」「普通」という値は全く信用なりません。日本人はよく「アメリカ人は・・・」とか言いますが、一体どれ程アメリカ人のことを知っているのか。総括できるほど知っているのかと言いたくなります。

例えば私は韓国に行ったことがありません。実際韓国に行ってみたいとは思いませんし、韓流文化は全然好きではありませんし、韓国政府やメディアはとんでもないゴロツキだとすら思いますが、現実問題として米国留学中や豪州赴任中、もしくはビジネスで会った韓国人で本当に嫌な奴だと思った人はほとんどいません。妻子もサイパンに1年ほど赴任していた折、多くの韓国人が助けてくれました。私は今でもサイパンで妻子を色々気遣ってくれた韓国人たちに深く感謝しています。(そういう人たちが現地の戦争記念碑を粗末にしたとはちょっと思えない)私が知っている韓国人はそういう韓国人です。ま、在日の人たちとも仕事で一緒になったことはあり、彼らはメディアやネットで叩かれているような気質の人は多かったように思いますが。

インターネットの怖いところろは「劉さん」「陳さん」「金さん」ではなくて「中国人」や「韓国人」で見てしまうこと。「劉さん」の補足事項が「中国人」ということではなくて、「中国人の劉さん」で見てしまうこと。メディアのフィルターが掛かっている、固定観念や先入観、希望的観測というフィルターを通したものしか見えていないと言うこと。インターネットが普及し始めた頃は、国と国の距離が縮小されて、相互理解には大変便利になってきたと思ったものでしたが、実際に普及するともっと距離が広がってしまった部分も少なからず。現実問題としてはもちろん、政治的な確執があり、それはそれで日本としては大問題ですが、主権在民の日本を始め先進国ですら政府と民衆のセンスの違いは甚だしいのですから、主権在民でない国では尚更。良し悪しはその人その人、ひとりひとりの資質に掛かっているのであって、その国の政府ではない。

逆の言い方をするのであれば、国民ひとりひとりがその国を代表している、その国を体現していると言えます。海外に観光で行ったことがある程度の人でもそれは分かると思います。個を見てその人のバックグラウンドを判断します。故に私は海外でも日本人として品位ある言動を心掛けますし、ネットで特に英語で投稿するときは日本の主張をハッキリ言う場合でも品位を保つように努力はします。

ということで昨今特にネット上で見かける自画自賛式の愛国主義や国家主義、全体主義的なものの考え方はインターネット上はもとよりホンモノの国際社会でも通用しません。そもそも主張があるなら日本国民どうして傷の舐め合いというのかウチワでROMっているだけでなく、正々堂々と海外のどこぞのサイトで弁明するぐらいの気概を持つべきだと思います。ウチワで自画自賛していてもキモいだけ(息子の言を借りれば)。傍から見たら「こんな手合いがあの『日本人』なのか」と絶望視されます。

来年には海外からの観光客数は2000万人を突破します。日常的に外国人を見かけることが多くなると思います。これを機に極力交流を試みてみたり、ちょっとした親切をすることで今少し文字通り「国際」を味わい、インターネット上に依存しすぎた、少々いびつなものの見方から醒めて欲しいと思います。


平成二十七年臘月二十八日
不動庵 碧洲齋