見取り稽古のこと

「見取り稽古」という言葉すら、昨今あまり聞かなくなりました。
文字通り見て覚える。観察する稽古です。
ぱっと見ただけで分かるものかと言われそうですが、逆に見てもいないことをするのはもっと分からないのも真理です。

古来から日本の伝統芸能ではこの「見取り稽古」がなかなか重要な地位を占めてきました。
例えば江戸時代ぐらいであれば、入門したての頃は雑用にこき使われ、道場の稽古は雑用の合間にチラチラと目の端に捉えられるだけだったかも知れません。その間に先輩は入門者の忍耐力と性格、身体的能力を見極め、初心者は全身全霊を以て合間合間にちら見した稽古の様子を目に焼き付け、脳裏に刻むわけです。で、ある日先輩に道場に呼び出されて猛烈な稽古が始まるわけですが、そこで観察力の無い人と隙あらば観察していた門人に差が出るというものです。

日本語では「みる」と言えばたくさんの漢字があります。「見る」「観る」「視る」「覧る」「診る」「看る」などなど。漢字は後世、中国から輸入されたものであり、元々の大和言葉は音声言語の「みる」だけでした。英訳したら「look, watch, see」でしょうか?いえ、「食べて"みる"」「やって"みる"」のようにも使います。分かりますか?強いて言えば「試す」というような意味合いでしょうか。古来より大和言葉の「みる」はただ視覚を機能させるだけに留まりませんでした。"try" することもまた「みる」だったのです。この古代日本人からの感覚を今なお私たち日本人は有している・・・と私は思っています。

とはいえ、ただ見ただけでは意味が無いことは言うまでもありません。見た対象を分析するためには自分の鍛錬を通した実体験と広く深い洞察力とそれを支える広く深い知識、知識を有機的に活用できる知恵が必要になってきます。
私は個人的には人の行為というものは万事、陽明学的な「知行合一」論に則っていると考えています。その人の意識的、無意識的を問わず、為された動作、行動、行為は全てその人が今まで体験してきたことの集大成であるとみています。言葉はいくらでも嘘がつけます。私のような浅博の徒でもIT機器を使えばそこそこエラそうなことが書けます。

しかし行動はそうもいきません。一挙手一投足、その人の健康状態や心理状態は言うまでもなく、人となり、人生が滲み出てきます。こればかりは隠しようがありません。これらは例えば戦闘に於いてはかなり有意義な情報となります。
これらの情報を素早く有為に解釈するための知識であり体験なのです。

自分が積み重ねてきた修練の頂の高さが絶対だと思う人はそう多くはないと思いますし、多分それは絶対ではありません(断言してスミマセン)。
「自分が持つものありき」の戦闘は「勝ちに行く」ためであり、多分いつかは疲れて負けます。
翻って例えば中国兵法風に言えば「天の時」「地の利」「人の和」を「みる」ことができる人は「相手の情報ありき」の戦闘です。最初に解答があって、数式を組立てるようなものです。相手が望む、もしくは望んでいないことを知っている上での戦闘は疲れない。逆にどんなに不利になっても生き残れます。人の社会をサバイバルするには後者の方が圧倒的に有利ですし、前者にしても楽に勝てます。
「みる」能力はこの位、重要なものだと考えています。

「みる」姿勢もたくさんありますが、無私になってみることが一番難しい。私たちは聖人君子、解脱した人間ではありませんから。
次に簡単なのは「相手の美点」を見抜く。これは結構分かりやすい。
あまりよろしくないのは「相手の欠点」をあげつらうことですが、一つ目二つ目をマスターした人ならいいのかも知れません。結局戦闘ではこの3つ目こそがカギを握ります。
至高のレベルですが見てなお判断せず身を任せる。ちょっと禅的ですがこんな風な人は商人であれ軍人であれ政治家であれ、超越的な人なんだろうなと勝手に想像しています。

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「見る」と簡単に流すなかれ。稽古でも仕事でも「ちゃんと話し聞いてた?」「ちゃんと見てた?」と言いたくなる人は多々いますよね?あ、私も時々言われますね(苦笑)特に興味が無いこと、嫌なこと、嫌な奴が対象だと、著しく見てなかったり聞いてなかったり。全然大人じゃないと反省しきりです。五感の情報をくまなく受け入れて精査する、この単純な生理的作業すら簡単にできないのが我々人間です。その上更に自我がジャマして希望的観測や先入観、固定観念というフィルターが強烈に働きます。ただ「みる」ことがどれ程難しいか、分かろうものです。こう言うと推理小説や推理ドラマみたいですね。

見る側としてはそれなりにランク付けがあります。これは私だけかも知れませんが。
1.歩き方、姿勢、行為、行動がだらしない人で技量に優れた人はもちろん、人間的にも優れた人はまずいません。
2.逆に上記が目を見張るほどに優れた人。程度や分野に差こそあれ、やはり優秀な人が多い。
3.「よく分からない人」これが一番恐ろしく感じます。年に1人いるかどうかですが、読めない人は面白い。
また1でも2になろうと努力している人は人間的に優れている人であることは言うまでもありません。一歩下がって1の自覚がある人も見込みがあります。自分の欠点が分かっているほど安心な?ことはありませんから。もちろん2から3になっている人も怖い。ま、そういう人は自覚が無い人が多い気がします。優れているかどうかは別として、私も2を目指して努力はしています。

稽古の際、入口で礼をして入場し着替えて準備運動や稽古前の談話、礼をして稽古。ここまででどの位、相手を推し量れるか、これも一種の戦いだと思っています。相手の襟袖を掴んで初めて「はい!」というのは、目隠しをして戦うようなものだと考えています。初心者は文字通り最初は目隠し状態であることが許されていても、経年した門下生がそれでは少々情けない。前哨戦でどれだけ勝ちを拾えるか、です。
ある程度のレベルになると、隠した行為、隠れた行為からも見通せるようにはなります。多分。

とはいえ、目を皿のようにして来る人来る人をじろじろ見ているようではこれまた失格(笑) そんな下品な武芸者がいたらご遠慮願いたいところです。いえ、武芸者でなくともですが。
ぱっと一目見てそれと分かるような奥の深い人間が一番ですが、そういう人は既に勝負がどうのという世界には住んではいません。上記を経て、と言う前提ですが、フィーリングで相手を推し量ることが出来るのだと思います。
私などはまだまだジロジロ見かねませんが、死ぬまでにはこのようなデキた人格を完成させたいものです。


平成二十八年神無月十八日
不動庵 碧洲齋