重く扱う 味ひをしれ

昨日のブログには見る側の心得として長々とつまらぬ事を書いてしまいましたが、今日はその逆、見られる側の心得をちょっと書いてみたいと思います。

その人の立居振舞というのはある意味一生モノで、大人になってからは早々たやすくは直りません。これはもう重々良く知られていることです。
そうは言っても大人になってから習い事もするでしょうし、特に伝統芸能などは現代においては大人になってからする事が多いのではないかとさえ思います。

子供の時に厳しく躾けられるとそれは一生モノになるとよく言われますがまずそれは本当でしょう。確かに皇族の方々の立居振舞や居ずまいを見るとやはり全くの別格です。いつだったか、現在ICUにて学業をされている佳子内親王殿下ですが、ご学友曰く、学食に入ったときどんなに遠くに座っていても、姿勢の良さから佳子様はすぐに目に付く、というようなことを読んだことがありますが多分本当だと思います。漂う気品とか品格というものは、えてしてそういったごくごく小さな行動所作の集大成ではないかと思います。

とは言え庶民たる我々とてそれにある程度近づく事は不可能にあらず。
努力すればそれなりに見栄えはよくなりますが、結局のところ付け焼き刃にならないかどうかと言う点に尽きます。「その時だけ」できても気品は出ません。「いつでも」「どこでも」「誰にでも」それができて初めて気品が漂うようになります、多分。

畏れ多いことですが、話しに上らせて頂いた誼で佳子内親王殿下のお写真を掲げさせて頂きまする(笑)
画像


あ、武芸の話しでした(苦笑)
利休道歌の中に、重さについて述べている句があります。

点前には 重きを軽く 軽きをば
重く扱う 味ひをしれ

点前には 強みばかりを 思ふなよ
強きは弱く 軽く重かれ


ま、簡単に言えば「重いものは軽いものの如く、軽いものは重いものの如く扱う妙を知りなさい。強いものを弱く見せ、弱いものを強く見せる妙を知りなさい。」ということだと私は解釈しています。
利休道歌は茶道の実践について述べているものが7割ぐらいですが、残りは精神的な事について述べているものが多く、武芸に通じるものも多々あります。
さて「重いものを軽く」は言うまでもなく筋肉を鍛えねばならないことは言うまでもありませんが、それ以上に身体能力を流水の如く用いよと示唆していると思います。筋力だけならオリンピック選手を上回る人は数多いるでしょうが、総合的身体能力となるとオリンピックアスリートを凌げる人はそうはいません。

「重いものを軽く」は相対的に容易と考えますが、その逆が問題です。「軽いものを重く」思うにこれは一転して身体的能力よりも精神的心得を述べたものと想像します。いかなるものをも慎重に扱う、丁寧に扱うことを述べています。ドアを締める、床のゴミを拾う、箸を取る、歩く、ほんのちょっとした仕草にも神経を行き渡らせかつそれを無意識のうちにこなす。結果、その動作所作に重さが出てくる。私が知る限り達人と言っていい人たちはこれらができています。日常的にこれができている人は(先述のものも含め)身体的精神的に相当な達人と考えます。そして武芸的見地から言ってもこれができる人の能力は恐るべきものがあります。

また、虚勢を張ると言いますから弱いものを強く見せることはその逆よりは楽なのだろうと想像します。強いものを弱く見せる、このくらい効果的な敵の制圧方法はありませんが、わざわざ強いものを弱く見せる努力たるや、色々な意味で難しいと思います。私の経験ですがここ10年ほど、武芸を始めて20年ぐらいの計算になりますすが「見栄えする強さ」が徐々に邪魔に感じてきて、取り去る努力はするようになってきた気がします。今は「むむっ!コイツできるっ!」(あ、本当にデキるかどうかは別として)という風には見られなくなってきたのは嬉しく感じます。

他に色々方法はありますが、上記に述べたこの方法はかなり近道ではないかというのが私見です。この方法は禅にも通じていますし、日本の伝統的生活習慣にも叶った所作です。細かい所や他の方法については各々の精進工夫ということで差し控えますが、精度の高い武技を実現するためには日常生活の中での動作所作、心持ちから修練しなければならないと思っています。


平成二十八年神無月十九日
不動庵 碧洲齋