不動庵 碧眼録

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<<   作成日時 : 2018/10/22 12:34  

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古来中国には「三鏡」という言葉があります。
ちょっとネットで調べたのですが出てきません。私の所蔵している中国古典の中に出てきていた言葉だったと記憶しています。今度探してみます。
うろ覚えですみませんが、その三つの鏡を以て我が身を正せというものです。「貞観政要」にも別の意味で「三鏡」という言葉が出てきます。
金の鏡は両親、銀の鏡は師匠、銅の鏡は友人です。
最近よくこれについて考えることがあります。

世に生を受けた以上、誰しも「金の鏡」は持ちます。もちろん生まれが不幸な人もいますが、いずれにしても二親がいないと生まれるはずもありませんから必ずいるものです。酷い親も多い昨今ですが、やはり大方の親は子供を育てて世に送り出しています。
一つ飛ばして「銅の鏡」友人。現代は大方どこの国でも教育の義務というものがあり、例えば日本であれば9年間、大学まで行けば16年間は学校に所属している計算になります。だからこの間に全く友人を作らない方が難しいはず。人生に於いて深い関わり合いのある友人を持てるかどうかは自分のコミュニケーション能力がものを言う場面でもあると言えます。

今回私が取り上げたいのは二つ目の「銀の鏡」師匠です。
自分にとってのマスター、先生です。
これは社会に在って師を持たない人は多くいます。
例えば何か特殊技能の道を歩むとして、多くの教室や道場を訪ね歩いても必ず良い師に巡り会える保証はありません。お金や時間を掛けても同じこと。どんな努力をしても見つからない人は見つからないことも少なくありません。(で、ある程度のところで納得する場合が多い)
親や友と違ってよい師に出逢える可能性というのはある意味、神機のような偶然が必要になります。
同門他流でも良い師を探し訪ね歩く人も少なくありません。或いはあまりひどい先生でなければもうそれでいいと落ち着く人もいます。
日本では古来から3年訪ね歩いても良い師を探せとか言われていたと思いますが、3年で見つかったら御の字であることも多く。

私には合計6人もの師がいます。武芸関係で3人、禅関係で3人。たった1人を見つけるのも至難の業であると思うのですが、私の場合はおよそ考えられる限り6人もの最高の師匠に師事することができているという、大変恵まれた環境にあります。
武芸に於いても禅仏教に於いても、大変素晴らしい智慧に触れられることにそれこそ毎日感謝が尽きません。

しかしながらそのうちの2名、武道と禅関係で一人ずつが既に他界しています。つまり1/3です。ひしひしと自分の年齢を自覚せずにはいられない気分です。ただ教えをどっぷりと受けているだけの怠惰な状況は許されません。やはり次の世代に繋いでいかねばなりません。私は結構わがままで、未だに「先生」と呼ばれるとイラッとすることもあります(笑) 私自身、ただの一武芸者だけでありたいと思っているからですが、そういうわがままは許されないのでしょうね。特に優れた多くの師に師事している場合は。

私は特に誰かに自分の武技や思想を受け継いでもらいたいと思ったことはありませんが、年長者としてキリのいい年齢である程度は師を訪ね歩く求道者、迷っている求道者には救いの手を差し伸べる程度の努力はしなくてはいけないのかなと思ったりします。自分の武芸、自分の禅は自分だけのもので、誰にもまねはできず継承も絶対にできませんが、私とて苦しんだときに手を差し伸べてもらったのだから一端でも助けになるという人に手を差し伸べるべきだと思うようにしています。その資格があるかどうかはいつも悩みながらではありますが。

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平成三十年神無月二十二日
不動庵 碧洲齋

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