利便性への恐れ

私はいつも、一つ便利なシステムや道具を使う度にある程度恐れを抱きます。少し考えが古いのかどうか。武芸者としての恐れです。
例えば車。簡単なところでは駐車時にヘッドライトの消し忘れがあったとします。キーを抜くと自動的に消えます。便利ですが、それは逆に「ライトを消す」という簡単な注意と行動を忘れさせてしまいます。
ハイテクでは昨今多くの車に搭載されるようになってきた衝突回避システム、あるいは自動ブレーキの類。もちろんこれは被害者を減らす工夫として大いに賞賛されるべきですが、人間の根幹である危機回避本能を殺してしまうとも言えます。
車そのものの機能もそうです。人が全速力で走っても時速30キロちょっと、自転車よりも遅いです。しかし車では軽く100キロを超えます。人は全く制御できない速度で、少しのミスで死ぬ可能性がある速度です。それを強制的に制御するために体重70キロにも満たない人の身体を運ぶのに1トン近い物質を動かすわけです。これが資源の無駄でないとするなら何が無駄でないのか、考えることしばしばです。(私は車を所有していません)

世の中が便利になるというのはおしなべて人が本来持ち合わせている本能や能力を漸減させていくこと他なりません。
一昔、ふた昔には誰でもできたことができなくなってきています。
例えば私は今、禅をしていますが、江戸時代などは恐らく今よりもずっと楽に見照体験ができ、それができた僧侶は多かったと想像します。今よりももっと入ってくる情報は少なかったですし、今よりもずっと単調な生活だったからです。つまり考え方を今よりずっとシンプルに保つ事ができました。
北朝鮮の脱北者が言っていたことですが、彼らはすごく昔のことでもかなり鮮明に覚えています。理由は北朝鮮では日々が単調で特筆すべきことがほとんどないからだそうです。何となく合点がいきます。
そんな昔の話でなくとも、インターネット普及前と後では人類史的にも情報量は比較にならない大変革を遂げています。

見照体験などと、なかなか抽象的なことでなくても歩くこと、身体を使うこと、自然を読み取り、草木を知り利用することなど、ごくありふれたことも、今ではわざわざ時間をかけたり、お金を払わないと体験できなくなってきました。

一武芸者として、そういうヒトの機能が日々喪失していくことについていつも恐れています。ま、私自身は器用でも何でもありませんが、子供の頃の原体験と較べて、今の子供たちのなんとひ弱なことかと、感じてしまいます。

便利なことに飛び付くのも人の本能かも知れません。今更昔と言わず1世代前の生活に戻ることすら勇気を要します。しかし便利なことによってポロポロと今まで持ち合わせていた、人という生物のスペックが落ちることを私はいつも恐れます。

どこまで便利なことに身を任せるかは時と場合によりますが、いつも恐れを抱き、疑念を持ち、時には少し拒絶するぐらいの気概がないと、生物としてのヒト、真の武芸者には近づけないような、そんな気がします。

そう言うつもりではありませんが、私は5年近く前から機械式懐中時計を愛用しています。チト値の張る物でしたが、いい買い物だったと思っています。毎日発条を巻かねばなりませんが、毎日そういう作業をしていると道具以上に感じるようになります。愛着が沸くのは概してアナログアイテムなのでしょうね。生活も時折、部分的でもアナログ的なモノがあった方がヒトとしての本能喚起という意味でも精神的リフレッシュという意味でもいいような気がします。

*写真は愛用の懐中時計
画像


平成三十一年睦月二十五日
不動庵 碧洲齋