観自在であること

当流では技の変化を重要視しています。
世界規模で見ると外国人が大多数を占めている当流ではそれは"Henka"として、外国人門下生にもよく認識されています。
古流故に守っていかねばならない固有のものがある故に善く変化する、なかなか奥が深いといつも考えます。

例えば1つの型を守る場合、その守られている型を徹底的に稽古するのもその型を理解する上で1つの様式ですが、その型を元に変幻自在に変化させることでその元の型が多角的に捉えられる、変わらぬ根幹の部分が見えてくる、そんな気がします。

変化とは言っても上下前後左右、至近遠方とあらゆる角度から見ないとそれは正しく見えてきません。正しく変化をして、元の技を見ないとそれは変化ではなく偏化してしまいます。

これは技に限った話ではなく、万事そうなのですがこれがなかなか難しく。特に自分自身を観察する場合などは認めたくもない事実を見なければいけないわけですから痛みを伴います。

観音菩薩は「観自在菩薩」と言われています。「自在に観ることができる菩薩」です。私たちの目は対象を全て見ることができますが、唯一自分自身だけは直接見ることができません。しかし観音様は自分自身ですら見ることができます。無我だからだと言うことだと思うのですが、自分に対して全くこだわりがないところで自分自身をも客観的に見えるという事でしょうか。

私の禅の師匠も良く言います。「なにか物事を勘定するときは、自分を入れない方がうまく行く」無我であれば大抵うまく行くという事、皆がエゴを持ち出すからうまく行かないと言うことです。その点日本人は割とうまく行っている気がしますが、個々で見れば自我をどうしても棄てられず悩み苦しむ人もいます。全然持たないという事は我々凡人には難しいですが、他人とコミュニケーションを密にすることで自我を薄めることは十分可能です。

対人関係が希薄になってきた現代ではその人との距離が難しく、密にコミュニケーションを取るのが難しい。一歩譲って若い内ならまだしも歳を取ってくるとこれはもう直すのは至難の業とも言えます。最近、そのためにエラく迷惑を被りました。これを機に直してもらえたらいいとは思うのですが、難しいですね。人はそう簡単には変わりません。ずっと繰り返すような気がします。

「観自在」であるための「無我」、大宇宙の運行がすみやかに行われるための「無我」、私もエゴまみれの沼地で喘ぎながら、いつもそれを考えている今日この頃です。

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令和元年長月晦日
不動庵 碧洲齋

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