鬼はいずこに

今年は「鬼滅の刃」が日本国内のみならず、アジアを中心に遠く西洋にまで影響を及ぼしているようで、驚いています。
一風変わった鬼退治の話ですが、成敗される鬼にもそれぞれ深い事情があって、同情すべき点も多く、実際主人公の竈門炭治郎くんは本当にこの鬼たちに慈悲を持っています。
昔から日本人が作るアニメには敵側にも一分の理があったりして、その辺が単純明快な欧米のアニメとは決定的に違うように思います。単なる勧善懲悪ではない辺りが日本人の心理を物語っています。

鬼というと超人的で神秘的で良くも悪くもあるというイメージがありますが、鬼という漢字はもちろん中国からで、それ以前から日本には「おに」という音声言語の単語があったそうです。その「おに」の語源は「おぬ」で漢字で書くと「隠」になります。表に出ない、隠れる、そういう意味になります。この語源になっている「隠」、一体どこに隠れているのでしょうか。山奥?暗闇?

私はそれは「人の心」を指していると理解しています。
社会の複数の理不尽が何かのはずみで共鳴して人に作用するとき、人は鬼の手に堕ちてしまいます。真面目な人やおとなしい人が想像を絶する悪行を行ってしまうとき、心に隠れていた鬼が顕在化する、そんな気がします。
人はすべからく日々ストレスに晒されているものですから、ちょっとやそっとの事ではそうたやすく理性を失ったりしませんが、何かほんのささいなこと、間の悪いことが偶然度重なると、いわゆる「魔が差す」状態になって鬼が現れる、そう思うのです。

心の鬼に対しては鬼殺隊も日輪刀もありません。退治はできても殺害できません。起きていても寝ていても、どこにいてもつきまとい、困ったことに弱ったとき、苦しいときにこそ挑みかかってくる、ホントに厄介な存在です。それは多分、自分を構成している一要素であり、自分の半身だからでしょう。生涯に亘って血みどろの激闘を続けていかねばならない強敵です。

「鬼滅の刃」では鬼が弱いのは太陽ですが、心の鬼が弱いのは多分「幸福感」。人が幸せに満たされているとき、彼らは弱体化します。究極的に、例えば愛の真理を理解した場合などは心の鬼は本当に死滅してしまうのかも知れません。それは難しいとしても退治し続けることはより簡単かも知れません。幸福であり続ければいいのですから。でもそれは1人では難しいでしょう。そこで幸福になるためには家族、友人、周囲の人の助けが要ります。言ってみれば自分と関係を持つ人たちが鬼殺隊たりうるのかも知れません。昨今はSNSで世界の裏側の人とも常時繋がりを持てます(私も毎日世界中の人と繋がっています)。だから鬼退治には有利な時代とも言えます。

もし、あなたが少し孤独であって、鬼につけ込まれそうな場合であっても、状況を少し有利にする方法はあります。それは「いつも笑っていること」。いつも笑みを絶やさなければ、鬼は忌避して出にくくなります。笑みを持続しにくい人は心にゆとりがない場合です。鬼はゆとりを嫌います。いっぱいいっぱい、心にゆとりのない人の心に現れます。多分、奥底から締め出されて現れるのでしょう。昔は鬼は本当に山奥にいたのかも知れません。しかし山河が人の手によって開発され、住処を失った鬼たちが見つけた移住先が人の心のような気がします。

ゆとりを持ちにくいのが現代人です。そんな簡単に笑えるか、と言うところですが、ここは卵が先か鶏が先か、です。ドリフのコントやコメディ映画でも観て、はじめは無理にでも笑うと、そのうち本気で笑ってしまうかも知れません。そうしたらしめたものです。動物に触れ合うのもいいでしょう。実際、うちの三毛猫は今まさにキーボードを打っている私の左腕に頭を預けて寝ていますが、癒されます。そういうほんのちょっとしたことからゆとりを得て微笑むことができる環境を整えていけば、鬼も恐れて容易に出てはきません。

その上で鬼がいることを認識してもいいのです。私だってお金は欲しい、1億円ぐらいあったら安月給で私をこき使っている会社なんか辞めたいですし、優しくて献身的で仲間由紀恵さんみたいな女性がいたらうちの妻と喜んで交換したいですし、気に食わない人は私にもいますし、もっともっと楽をして強くなれるなら、武芸もこんなに楽なことはないでしょうに(笑) そんな風にお気楽に思えば、或いは鬼もばかばかしくて出てこないかも知れません。鬼が呆れて闘志を失ったらしめたもの。ゆとりの勝利です。いや、大和の勝利と言うべきかも知れません。「和を以て貴しとなす」と古代の法にありますが、私は日本古来からの偉大な智慧ではないかとよく思いを馳せます。


令和弐年霜月晦日
不動庵 碧洲齋

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