久米平内のこと

昨日、稽古の後にふと何気なく浅草まで脚を伸ばしました。
このところ用事があって毎週末に浅草に行っていましたが、昨日は別段用事もなく。
いつもの通り雷門から参道を通って宝蔵門手前左にある浅草不動堂に参拝、門をくぐって本堂に参拝、影向堂にて不動明王を参拝して、また宝蔵門まで戻りました。
宝蔵門向って右側、不動堂の反対側に佇んでいたのですが何気に背後の小さなお堂が気に掛かり由来を読んでみました。浅草寺には何度も来てますが、この小さなお堂の由来を知ったのは初めてでした。

このお堂の名前は久米平内堂、久米平内は1616年から1683年まで生きていた実在の武士の名前です。生まれは熊本で三河にあった一藩に仕官、後に赤坂にて道場を開いて武術を教えたそうです。あちこち変遷してますが、彼が生まれたのは大坂夏の陣の翌年。彼が成人した頃でもまだ戦国の荒々しさが残っていたと思われます。ましてや熊本辺りの生まれとあれば気性もただならぬものだったかも知れません。どんな流儀を学んだのか興味があるところですが、Wikiには伝説・物語として卜伝流と柳生新陰流となっています。

さてこの久米平内、赤坂にて道場を開いて門人を取っていたものの、恐らく戦病というのか、人を斬り殺したいという欲望が抑えられず、千人斬りの願を起こし、夜ごと辻斬に出たと言われています。実はこの頃はまだ江戸の町も言うほど治安が良かったわけではなく、若いときは戦場を駆け巡ったミドル侍が酒を飲んで暴れて人を斬り付けることは良くあったようです。とはいえ久米平内が大人になった頃には島原の乱を除けば大きな戦もなく、恐らくは武芸に励んでいた武芸者からすれば、無聊を託っていたに違いありません。故の千人斬りの願掛けではなかったでしょうか。多少の誤解を恐れずに言えば同じ武芸者としては少し分かる気もします。当時はまだ武道の精神的な哲学もそれ程ではなかったでしょうし。

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久米平内(Wikipediaより)

実際彼は本当に千人も斬ったのでしょうか?分かりませんが、いつかは分からぬ後日、一人の禅僧の元に入門します。その僧の名は鈴木正三。余り僧侶っぽくない名前ですが、彼は曹洞宗の禅僧で、何を隠そう旗本の出身です。徳川家からも覚えめでたく、普通は武士、特に旗本が出家するというのは言語道断で規則を破ることになっていたものの、徳川秀忠自ら許したと言うぐらいの家柄でした。鈴木家は初めは500石、のちに1000石に加増されたぐらいですから結構なご身分です。鈴木正三は17歳の頃から仏教に深く傾倒していて、42歳で本当に出家してしまいました。鈴木正三は曹洞宗の僧侶ですが、宗派に囚われず色々な宗派を学び、かつ学の浅い草民のために分かりやすく仏教を説いたとされています。私も幾つか著書を読みましたが大変興味深いものです。彼は仁王や不動明王のような仏を信仰して激しくも厳しい修行を推奨していたようです。沢庵禅師や一休禅師と並んでこの鈴木正三も大変気に入って尊敬している禅僧です。

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鈴木正三

久米平内はもしかするとそういうところに惹かれて鈴木正三のところに入門したのかも知れません。その間どんな修行をしたのか分かっていませんが、68歳で亡くなりました。その際、彼は自らの像を刻み、宝蔵門近くに埋めて罪業消滅を願い、通行人に踏みつけさせたそうです。やはり千人斬りはこれだけ豪胆な人でも耐え難いものでしょうね。千人を斬る前に精神が破綻するのかも知れません。

今度から浅草寺参拝の折は久米平内堂にも同じ武芸者として懇ろに読経したいところです。

令和元年長月十七日
不動庵 碧洲齋

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