利休道歌 十一

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点前には
重きを軽く軽きをば
重く扱う味ひをしれ



来年からちょっと温めていた稽古をしようと一大発心しています。何人かの方には話したかも知れません。全く危険ではありませんが、かなりの忍耐を長いこと要します。これをマスターするのには下手をすると10年近くかかるかも知れません。どんな稽古方法なのかはナイショです(笑)。しかし武芸を離れ日常においてもその稽古はかなり有効だと考えます。個人的には人生の半分まで来てしまったので、独身者よろしく武芸の武芸による武芸のためだけの稽古などというゼイタク過ぎるシロモノには時間をかけず、普遍的にも有効な稽古をすべく、日頃から色々考えています。家族を持ち子を育てるという大鉄鎖、もとい大任の元では、偏化した稽古は総体的に見て決してよろしくありません。(過分にねたみやひがみも入っていますので、そこのところヨロシク)

その稽古方法に関連して、この句はとてもつながりが深いものです。
茶道では重かろうが軽かろうが一定の所作を遅滞なく行うというと言うところに重きを置いているようです。これを行間読みすれば軽いものを重く、重いものを軽く扱えるようになったら大したものでしょうね。これは武芸でもかなり有効と考えます。禅でも全てのものには仏性があると考えれば、軽重を問わず丁寧に扱い、そのものを全うさせるという意味でよい句だと考えます。いくら重くとも人が持てる重さです。私は肉体の鍛錬と言うよりも物に対する心の持ちようのための句ではないかと考えています。

江戸時代、茶室に入室する時は刀を預けたそうです。それによって茶室に入れば大名も農民も関係なく、等しく見なされるのだそうです。この現代でもなお、例えばインドやネパールなどではカースト制度に苦しんでいる人が多くいます。身分制度が厳しかった当時としてはなかなかの発想ではないかと思います。そしてそれを本当にしてしまう辺り、日本の茶道の素晴らしい点でもあると思います。この点前の動きにおける均一化なども茶室内における身分の平等化のような視点から来ているのでしょうか。そしてそんなところに美学を求める日本の文化というのはやはり秀逸ではないかと自画自賛してしまいます。


SD101216 碧洲齋