友ということ

ネット友達は多いが、リアル友達はほとんどいない若者たち―中国
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110419-00000007-rcdc-cn
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Record China 4月19日(火)10時21分配信
2011年4月17日、中国で「80後」「90後」と呼ばれる80年代、90年代生まれの若者の間で、ネット世界の友人は大勢いるが、現実世界での友人は限りなくゼロに近い傾向が広がっていることが分かった。北京晨報が伝えた。

例えば、ネットユーザー「淡然」さんの場合。インスタントメッセンジャー「QQ」では500人の“友人”とつながっており、マイクロブログのフォロワー数も1000人を超える。だが、先日熱を出して寝込んだ時、誰にも助けを求めることが出来なかった。

もう1人のネットユーザー「咆哮帝」さんは数多くいる“友人”たちについて、知っているのは「ハンドルネーム」だけ。本名や職業などは何も知らないため、相手がネット上に現れなくなれば、自動的に友人関係も終わりになる。

営業部門でバリバリ働く何(ホー)さんは、大学の同窓会に出席して驚いた。互いに忙しい合間を縫ってやっと開催された同窓会。ところが、料理が運ばれてくるたびに一斉に携帯電話を取り出し、写メを撮り始める仲間たち。同じテーブルにつきながら、みな下を向いて時折ニヤニヤしながら携帯をいじる光景に、何さんは「あり得ない!」と叫んでいた。(翻訳・編集/NN)
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「友達がたくさんいるということは、友達が全然いないことである。」

これはかの哲学者、アリストテレスの言葉として有名ですが、インターネットが急速に普及してきた現代において、なかなかうまく言い得て妙な気がします。

ネット友達が悪いという意味ではありません。

私には非常に素晴らしいネット友達がたくさんいます。

そして私の場合ですが、現実的に実際に会うことが非常に難しいほど遠方に住んでいる方もいます。


たとえばアメリカ人を観ていて、いつもうまいなと思うのは、交流の持ち方。きっかけを作ったりするのがうまいのです。

こればかりは残念ながら日本人が全く及ばない点です。

ヨーロッパ人についても大方、同じ事が言えます。

国境を越えてきた人たちに対しても普通に接することができるのですから、同じ国の人たちに交流を求めるのはそれほど苦にはならないようです。


翻って日本人とは言わず、東洋人は同じ顔をしているのにギスギスしていることが多いですね。
(こういう時は縦社会、横社会と言いたくなります)

その原因は割合としては日本がぐっと少ないにしても、原因は双方にあると思います。

そう考えると同じ顔でも相当違う文化なのだと痛感させられることしばしば。

インターネットは便利で、もう引き返せないことは明白ですが、欧米人たちは自分たちの陽気さを助長する手段として利用するのに対して、日本人や東洋人は殻にこもるための手段になっているのではないかと危惧します。


そんなことから私はmixiの友人やフェイスブックの友人は可能な限りリアルにしています。

ミクトモは46人のうち、会ったことがないのは4.5人ですし、フェイスブックでも少なくとも半分以上はリアルフレンドです。

フェイスブックに関して言えば、友人は世界中にいるので、半分以上という比率の高さは私としては満足のいくものです。


私も俗人ですから、苦手な人もいますし、会いたくない、できたら話したくない人は公私ともにいます。

幸にしてそれを禅行における修行の糧として、喜んでその状況を前向きに受け入れてはいますが、程度に差こそあれ、それがこの娑婆の姿ではないかと思います。

あきらめるとかあきらめないとかいう視点、割り切りではなく、それそのものがこの世のあり方だと思います。
(禅ではそれがそのまま仏だと言われていますから、私はそれを体得しようと涙ぐましい努力しています)


逆の言い方をすれば、度量が広く、誰とでも打ち解け、素直な人ばかりだったら天国と同じでかなりつまらないと思います。

同じように考えれば、ネット友達ばかりというのもかなりつまらないと考えるのです。


人と接するノウハウの衰えは、ひいては人類そのものの衰退にもつながるのではないかと、思わなくもありません。

相手は自分ではないですし、ゲームのようにリセットも効きませんが、対人関係すべからくワンチャンスであると思えばこそ、「一期一会」の奥深さと、人を知るおもしろさ、緊張が分かろうというものです。


民度が低いと言われる中国国民ですが、共産主義下のいびつな教育を取り除けたら、やはり遣唐使の頃のように、命がけで会ってみたい相手になるほどの奥深さが蘇るのではないかと夢想してしまいます。

そう思わなくなるほどにかの国の文化が破壊されていなければよいのですが・・・。

日本の中国史ファンは皆、そう真摯に願っていると思います。


もっともその前に日本人もこのインターネットという快適な陥穽に気をつけて利用せねばなりませんね。



SD110419 碧洲齋