雪原に佇み想ったこと

週末は家族で長野県は美ヶ原高原に行きました。
そこで、少々機会があったので、たった一人で雪に覆われた高原を歩きました。
気温はマイナス10度以下、風速は多分、前進しにくい程なので、10メートル近くはあったと思います。体感温度は風速1m毎にマイナス1度ですから、雪原に佇んだときはマイナス20度近かったかと思います。
雪原に一人で佇んだらどんな感じになるか、宿泊した小屋(と言っても鉄筋コンクリート製の立派な旅館クラスの建物ですが)がほとんど見えなくなるまで雪原を進みました。
時折、ものすごいブリザードが吹くと、目の前がホワイトアウトします。白紙を顔に張られたような感じです。それ以外は水墨画のような白と黒だけの世界が広がります。

私は独りでいることをこよなく愛する方なので、このような孤独感にはたまらない魅力を感じます。みんなでワイワイガヤガワやるのも悪くはありませんが、独り山にいることの方が安らぎを感じることしばしば。人嫌い、コミュニケーション能力不足、何でも結構。とにかく独りでいることは好きなのです。

しかしながら今回、不思議と何故か孤独感を感じることができませんでした。雪風が吹きすさぶ、雪原にただ独り佇んでいて、あの懐かしい感じがするはずの孤独感はやってきませんでした。仕方がないので、ブリザードが吹き荒れている雪原をあてもなくせっせと彷徨いました。(まあ、見えないだけで小屋から数百メートルといったところですが)標高2000メートルの高さです。そのうち息が切れてきます。それでも身体とは別に、心の孤独感がありません。

吹雪の中でほとほと困っていると、突然「三世諸仏」という言葉が思い浮かびました。
ずっと昔、師に「過去現在未来という相対世界はないと言っているのに何故、過去現在未来という仏で表わされているのですか?」と尋ねたことがあります。その時、師は「経という言葉は「たて」と解されて、仏典を指していますが、過去現在未来に至るまで連綿と連なった真理も指しています。そういう意味で過去現在未来という区分けはあってないのです。そして、その対の「よこ」を意味するのが今その瞬間の森羅万象です。」そんな風に答えていただいたと思います。

雪原に佇む私を想えば確かに独りです。しかし半径数キロで考えれば数十人からの人間が間違いなく生きています。そしてこの小屋が位置する町には何千人からの人間が生活を営んでおり、県単位では数百万人、日本には1億人以上、地球全部では何十億人、いやいや、人間とは言わず、蟻やバクテリアの類をも勘定に入れ、宇宙全部を量ってみたら! 孤独というのは自分で勝手に決めた自分だけの感覚ではないでしょうか。大都市でも孤独な人はたくさんいます。秘境に行っても孤独と思わない人もいます。その違いは多分、「自分がいる『ここ』という場所を、どこであるかと自分で定める」ことだと思います。

誰もいない大自然の中でも、同じ地面を何十億人の人が踏んでいる、と思える人がいます。大都会で「自分しかいない」と孤独をかこつ人もいます。孤独な人は『ここ』が手の届く範囲よりも狭いのではないかと思います。脳細胞の幾つかだけが、彼らの世界なのかも知れません。

しかし現実は違います。光の速度を以てしても何百億年もかかる程遠くにまで、宇宙は広がっています。地球というたったひとつの星にすら、宇宙に散らばる星の数ほどの生命がひしめいています。いや、生命体ではない、大自然の景色にすら私たちは心を奪われるのですから、生きている死んでいるというのもあまり関係ないのかも知れません。

生きている死んでいるのが関係なければ、過去の偉人、将来会うかも知れない人たちに想いを馳せるのも良いかも知れません。そう思うとき、『ここ』とは横幅では宇宙一杯、縦幅では宇宙が発生する前から宇宙がなくなるあとまで、全部を満たしているそのものではなでしょうか。宇宙一杯に、時間いっぱいに満たし尽されているそのもの、実にリアルな感覚と共にそれを感じました。見照などと言う高級なものではありませんが、凍てついた雪原に独り佇み、『ここ』とは一体どこなのか、なんなのか、いつなのか、ほんの少しだけ分かったような気がしました。


平成二十五年正月二十八日
不動庵 碧洲齋