正木丹波の槍

歴史的、特に戦国時代では特筆すべき事がかなり少ないわが埼玉県ではありますが、全国に誇れることの一つが「忍城」です。2012年には「のぼうの城」として映画化もされました。豊臣軍と言えば攻城戦の常勝軍として知られていますが、その豊臣軍をして全国で唯一落とせなかったスーパーな田舎城です(笑) ま、指揮をしたのが石田三成だったという幸運もあったかも知れませんが。それにしても2万(少なくとも)対3000弱(農民含む)で守り切れたのですからこれは誇れることでしょう。豊臣軍以前にも上杉の攻撃にも見事に耐えています。

天正18年、豊臣軍の城攻めに際して、受けて立った成田長親の家臣に正木丹波守利英という家臣がいました。槍の名手だったそうです。巨大な豊臣軍の攻勢の前に、なかなかよく戦ったと思います。史実とは違うかも知れませんが「のぼうの城」でもよく知ることができます。

少数で城を守り通した武人です。世は戦国のまっただ中です。しかも攻めてきた相手は石田三成、大谷吉継、長束正家、真田昌幸、真田信繁、直江兼続、佐竹義宣などなど、大河ドラマに出ているあの有名人たちです。その彼らが落とせなかった城です。講和後に解散した忍城の家臣団の引き抜きにどれだけ熱心だったか、想像に難くありません。大金を積んだり、超豪華条件でヘッドハンティングを試みたことでしょう・・・が、不思議なことに家臣団がどこかに移って輝かしい功績を挙げたという話を聞きません。文字通りの「霧散」です。地元から離れたくなかったのかなんなのか。実は埼玉県民としてこの事実を誇りに思います。

正木丹波守もこの戦いの後すぐに防衛に当って自分の持ち場だった辺りに臨済宗の寺を建て、僧侶を招き開基しました。言うまでもなく忍城攻防戦で亡くなった人たちを弔うためです。本人は1年後に他界したそうです。命日とされているのは6月2日。(あ、丁度一週間前ですね)彼の墓所は今なお、彼が開基したその高源寺にあります。

正木丹波守を知ってから、どうも彼を気に入っています。功名に目も向けずひたすら犠牲者を弔う、戦場では尋常ならざる力量の持ち主。そして槍の名手。臨済禅寺の建立し、何と言っても我が埼玉県、郷土のサムライです。親しみを感じること甚だ大です。時々稽古で槍を手にするときは必ずと言っていいほど槍を通じて正木丹波守を感じています。我が郷土の士として恥じることなきよう、名を損ねぬよう、いつも想います。

「私の武芸の矜恃」が「その土地、そこの民、先祖」に沿って生きているかを考えます。現在でこそ日本国、日本国民とスケールが大きくなっているかも知れませんが、要は武人として無私をして公に尽す覚悟があるか否か、です。これはいつも尽きぬ命題であり、特に槍を手にして正木丹波守を想うとき、この命題を想起させます。

栄達し名を挙げることも決して悪いとは思いませんが、私は一武人として、正木丹波のような生き方を志したいといつも思っています。

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平成二十八年水無月七日
不動庵 碧洲齋