進化より深化

昨今、インターネットで膨大な量の情報を得ることができ、その中でかなり効率的に自由な選択をすることができるようになりました。
A先生の稽古はどうだったとかB先生の技は凄かった、C先生の理論は秀逸だった、などなど。直接赴かずとも参加者のコメントやブログを読めばたやすく分かるようになってきました。20年前ではおよそ考えられないほどの情報量です。

インターネットの普及で、人間関係もグローバルな様相を呈してきました。ま、日本人の場合は日本国内に限られることがかなり多いことに失望させられますが。
当流は元々外国人が多いのでFacebookの普及は私にとって大変便利で、滅多に来ることができない同門でも顔を覚え、日々何をしているのか、質問の受け答えなど、すぐそばにいるかのように簡単にできるようになり、そのありがたさたるや言葉もありません。

そのように劇的に変化した生活環境ですから、従来のスタイルを維持するのは難しく、従来のものが必ずしも良いというわけでもありません。そもそも変化を否定することは生物進化の理に反しています。

久し振りに武友に会いました。数年ぶりだったかと思います。
武歴はほぼ同じぐらいではなかったかと思いますが、衝撃的だったのは技量が以前よりうまくなっていないというよりもむしろ下がっているのではないかとさえ思うほどの動きでした。

分かれた後にしばらく考え込まずにはいられませんでした。
私たち1人ひとりの与えられた時間、労力、能力はそれほど違いはありません。オリンピック選手と言えども例えば一般人の数倍の能力というわけではありません。その中で如何に効率よく、バランス良く自らを向上させるかが最大の問題になってきます。それができた人が、オリンピック選手のようにずば抜けた記録を出すわけです。

私は10年を超えるような芸事?習い事は武芸と禅ぐらいですが、その中で分かったことが幾つかあります。これはあくまであまりに非才で怠惰な私の経験ですから普遍的真理ではないかも知れません。以後、私の独断と偏見に基づいて書きます。

遍く師を訪ね歩き教えを請い指南を受けると、たくさん知った気がします。幅広く知ることができます。知らない世界を知るという、人間の本能に近い欲求を満たすことができます。ただし、実際、その行為はほぼ、その師の理合、技術を撫でているに過ぎません。1人の人間の得たものをちょっとばかり追体験するだけでは、本来知るべきレベルにあって「知った」内には入りません。いわゆる焼き付け刃です。

自分の本流を深めるために、たまに他を見ることはあります。見るべきです。しかしそれは幅広くたくさん、他を見て触ることではありません。色々なものをちょっとずつたくさんかじったという人の話は大変おもしろいものですが、悟るに至る、閃きをもたらす、最後のワンピースに適うものではありえません。

たまにいるのですが、来日中に絶え間なくたくさんの師範の指南を受け、帰国する頃になって結局何をしたのだろうかと、途方に暮れる人を見かけます。こういう方は、多分軸足がない。迷いのない人は多分軸足か道がしっかりある人でしょう。迷っていることに気付かない人もいますが、その場合は自覚がないだけに重症です。色々な人からたくさんのことを学んで整理して統合できる人間なんてそんなにいません。整理統合する手間を考えたら、初めから教えを請う師匠は多くなくても良い。たくさんの師匠に師事すると、多くの場合は経験値が上がった気がするのは間違いなくただの錯覚です。

前に読んだ本にこんな命題がありました。
世界中を旅してきた若者と、一つの村にずっと住み続けている老人、どちらが物知りか。
若い頃は当然ながら若者の方に軍配を上げましたが、今思えば老人に軍配ががります。
なるほど若者はたくさんのことを知ってはいますが、旅をする能力、異邦の地で交流する能力を除くと、生活に即した技術を身に付けていないから。若者は何一つ生産に寄与する技術を持っていない、これが問題です。(ま、一つの村に1人ぐらいいてもいいとは思いますけど)
実用に耐えうる技術を持つこと。それを芸術レベルにまで昇華させること。これが芸道であり、その中の一つに武芸があるわけです。

広く知ることは例えれば浅くて広い湖。
深く知ることは例えれば深く狭い井戸。

広くて浅い湖は遠望できるほどよく見え目立つものですが、すぐ干上がります。
その後には泥土ばかりの湖底が晒されるばかりです。
狭くて深い井戸は見つけにくいものですが、少しぐらいのことでは涸れません。
深い故に地下水から絶え間なく水が湧いてくるからです。

浅くて広いものを知ることは容易です。あたかもネットで言葉や画像を拾うが如く。
狭くとも深いものを知ることは難しい。深い知恵、実践が必要になります。

ウユニ塩湖のように鏡面の湖は目を引きますが、喉を潤す清水は狭くとも深い井戸から組上げられた水であることを覚えたいところです。

ここ数日、そんなことを考えていました。

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平成二十八年水無月十七日
不動庵 碧洲齋